雑誌岩井圭也

小説と雑文

わたしの『数学本』4冊目

天才の栄光と挫折 数学者列伝』文春文庫

藤原正彦

 

 たとえば、「数学者の伝記を読んでみたいんだけど、何かおすすめある?」と質問されたとする。相手が数学にも読書にもなじみがない人であれば、本書はわたしがお勧めする候補の筆頭に挙げられる。

 

 1冊で何人かの数学者をオムニバス的に紹介する本はいくつかあるものの、その人物の主な業績の解説に終わっている場合も少なくない。枚数の都合もあって細かく語ることが難しい場合も多いだろうが、せっかく個人的に本を読むからには「理」だけでなく「情」を味わいたいという方も多いだろう。

 本書では9人の数学者の生涯が紹介されている。まず、この人選が素晴らしい。ガロアラマヌジャンは個人の伝記もいくつか日本語になっているが、ソーニャ・コワレフスカヤウィリアム・ハミルトンを取り上げた書籍は比較的少ない。有名人だから、という理由だけで選んだのではなく、著者の心の琴線に触れた人物を選んだことがうかがえる。

 各編に共通しているのは、著者自身の意見や思い出、旅先での感慨が記されている点だ。無味乾燥な記録の列挙では醸し出せない臨場感が本書のオリジナリティになっており、各人の人となりをくっきりと浮かび上がらせる。なおかつ、文章は読みやすい。数学者にまつわる入門書として最適と考えるゆえんである。

 

 通読して感じるのは、どんな人間も社会とは無縁でいられない、ということだ。

 純粋数学の安全さを謳ったハーディの弟子・チューリングはドイツの暗号エニグマ解読に貢献し、後に算聖と称せられる関孝和は暦を巡る渋川春海との争いに敗れて『はるかに下の地位』に甘んじた。社会とのかかわりが仕事に影響を及ぼすことを知っていたからこそ、ワイルズは七年もの間、フェルマーの最終定理証明に関して秘密主義を貫いたのだろう。

 他の科学分野、他の職業と同じように、数学者も社会の一員である。たとえその業績が神性を帯びていたとしても、あくまで人間の手による業績だということは尊重されなければならない。

 神という言葉は、時に人を思考停止に陥らせる。本書の紙面で生き生きと描かれているように、数学者ひとりひとりは生身の人間だ。その業績を残した人物への敬意は欠かさないようにしたい。

 何はともあれ、本書には凡百のフィクション顔負けのドラマチックな人生が九つも詰めこまれている。数学ものは初めてという方も、さんざん読んできたという方にも、お勧めできる一冊である。

 

 ちなみに「永遠についての証明」では、二人の数学者が主人公として登場する。そのうちのひとり、天才と呼ばれる三ツ矢瞭司の人物造形には、本書に登場する数学者たちが深く影響している。

 彼・彼女たちに共通するエッセンスが、少しでも三ツ矢瞭司という人物で表現できていればと思う。