雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <1>

 赤子のわたしを抱いた和馬さんはまず、似てる、とつぶやいたそうだ。嬉しそうに。

 和馬さんはみずからの鼻の造作を世界で最も醜いものだと信じている。顔の真ん中でなだらかに盛り上がった突起の両側には、洞穴のような黒々とした通気口が広がっている。実を言うとわたしは和馬さんの鼻をそれほど醜いとは思っていないが、本人にそれを伝えたことはなかった。

 それなのに、和馬さんはわたしの鼻が自分の鼻と似ていることに感動した。今でも重雄さんは、和馬さんが真っ先にわたしの鼻への感想を口にしたことを恨んでいる。配偶者を前にして言うべきことではない、と。その通りだと思う。生物学上、わたしは和馬さんと卵子提供者の子であり、重雄さんのDNAは伝わっていない。でもわたしにとっては二人とも父なのだった。

 わたしは自分の部屋のスタンドミラーに映った立派な鼻に視線を集中させた。自然と黒目が寄り、意図せずひょうきんさが増す。幼児の段階ではそれでもまだ小ぶりだったが、成長するにつれてわたしの鼻は加速度的に和馬さんに似てきた。両翼を広げた蝙蝠のような形へと変わり、毛の茂る洞穴の内部を世間様に堂々と開陳している。

 ただ、さっきも言ったように、わたしは和馬さんの鼻をそれほど醜いとは思っておらず、つまりわたしの鼻もそれほど醜いとは思っていない。これはこれで、均整がとれているというのは持ち主の贔屓目だろうか。それに、指を突っこんで内部をほじくりやすい。これは明確な利点だ。

 昇ってから間もない太陽が、雨上がりの地面をじりじりと熱している。けさは早く起きすぎたせいで、退屈を持て余している。退屈さにあかせて、わたしは顔のパーツの再点検にいそしんだ。奥二重の目は、これは間違いなく和馬さん由来だ。普段は一重だが、疲れてくると二重になるところまで同じ。唇の分厚さと、耳の薄さはきっと母。額の狭さも母だろうか。眉から生え際まで四センチちょっとしかない。和馬さんの額は頭頂部まできれいに禿げあがっているため、どこまでが額かよくわからない。

 主要な部位の点検を終えると、飽きてしまった。出勤時刻にはまだ早いが、家を出ることにした。

 裾のちぎれかけたパジャマを脱いで、ジーンズとシャツに着替える。ベッドの上に捨て置かれたパジャマは薄桃色の雑巾だ。いつから着ているのだったか。従姉からのもらいものだったような気がするが、忘れてしまった。わたしは衣類の来歴をほとんど覚えていない。今着替えたジーンズとシャツだって、いつ、どこで、いくらで買ったのか、記憶にない。そういうことを話すと、信じられない、と驚かれたり、笑われたりする。そんなにおかしいことだろうか。わたしたちは誰ひとり、自分の身体をいつ、どこで、いくらで買ったのか、覚えていないのに。

 二階の部屋を出て一階に降りると、少し気温が低くなった。暖気が上へ上へと行くことを知ったのは、戸建てに越してくる前、団地住まいでのことだ。ほぼ正方形の浴槽に湯を張り、膝を折って浸からなければならないみじめな入浴を強いられていた。たびたび、肩のほうは熱いくらいなのに、足や尻はぬるま湯にもなっていない冷水ということがあった。そのたびに慌てて浴槽から飛び出し、プロペラみたいな羽根のついた棒で湯をかきまわす。この戸建ての風呂は勝手に水をかき回してくれる。おかげでプロペラ棒は浴室から消滅した。

 和馬さんも重雄さんも、もう家を出ていた。出勤間際の時間帯、わたしはいつもこの家にひとりだ。冷凍してある白米を温め、インスタントのお茶漬けにポットの湯を注いでかきこんだ。重雄さんが朝必ずコーヒーを飲むため、湯だけは沸かしてある。夏と冬の境目で、わたしは汗をかきながらお茶漬けを食べた。

 顔を洗い、歯を磨き、日焼け止めだけ塗って家を出た。もう長いこと、メイクをしていない。最後にしたのは誰かの結婚式だったと思うけれど、誰かの葬式だったかもしれない。いずれにしろ、わたしは脇役だった。

 ほとんど荷物の入っていないリュックサックはとても軽い。外気からは夜明け前まで続いた雨の名残りがはっきりと感じられた。自転車にまたがり、繁華街の方角にむけてペダルを踏んでいる最中、腹底に響くサイレンの音があたりの空気を一斉に震わせた。うううう、というべきか、おあああ、というべきか。とにかく、錆びついた自転車のタイヤがきしむ音や、名前を知らない鳥の羽音や、風に吹かれた洗濯物のハンガーが物干し竿とこすれる音や、その他もろもろの音という音がすべて、暴力的なサイレンで塗りつぶされる。サイレンは微妙な高低のうねりをともなって鳴り続ける。通りがかった民家の二階で、住人の男が窓を開けて音の発信源のほうをにらみつけていた。十三年前からこの町に住んでいるわたしには慣れ親しんだ音でも、あの男には耳障りな騒音としか聞こえないらしい。上半身しか見えないが、男は夏が終わったというのにランニングシャツ一丁だった。