雑誌岩井圭也

小説と雑文

わたしの『数学本』5冊目

『完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者』文藝春秋
(マーシャ・ガッセン、訳・青木薫

 

 本書はひとりの少年が数学に目覚め、世紀の証明を発表し、そして表舞台から姿を消すまでの経緯を丹念に追ったノンフィクションである。

 少年の名はグリゴーリーペレルマン

 ペレルマンは2002年、ネット上にポアンカレ予想の正しい証明を提示した。ポアンカレ予想クレイ数学研究所が定めた7つの「ミレニアム懸賞問題」の1つであり、解決者には100万ドルが授与されることになっていたが、ペレルマンはこれを拒否。その前には数学界のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞も辞退していた。

 歴史に名を残しながらも隠遁生活を選んだペレルマンの半生を、彼と同じく旧ソ連出身のユダヤ人数学者である著者が追う。

 

 数学クラブの指導者・ルクシンは10代のペレルマン少年と出会い、その問題のエッセンスを見抜く能力に驚嘆する。

 当時、ユダヤ人の大学入学には厳しい制限が設けられていたが、ペレルマンは持ち前の厳密な思考力を発揮して国際数学オリンピックで満点の快挙を達成、大学入学の許可を得る。

 16歳で大学生になったペレルマンは数学クラブの教え子たちに完璧さを求め、友人と別々の進路へ進むなかで、少しずつ孤立を深めていく。渡米を経て、ポアンカレ予想の証明を提示したペレルマンだが、証明を巡っては数学者たちの間で諍いが生じる。母親を除いてただひとり口をきく相手であった師のルクシンも、ペレルマンの数学に対する失望を止めることはできなかった。

 

 ペレルマンは幼少時、華々しく「異彩を放つ」ようなタイプではなかった。おそろしく頭の回転が速く、思考は厳密。そういった特質を持った彼だからこそ、ポアンカレ予想を証明することができたのであり、またその潔癖さゆえにコミュニティとのかかわりを拒絶したのかもしれない。

 彼は問題の本質を見抜くことに長けていた。幾多の数学者が、ポアンカレ予想という巨大な怪物の全容を把握できず敗れ去っていったが、ペレルマンは初めてその本質を見出したのである。

 その洞察力が人間関係においても発揮されなかった、とは言い切れない。ペレルマンがあらゆる人間の表層を引きはがし、常にその核心から目をそらすことができなかったのだとすれば、コミュニティに絶望する気持ちも理解できるような気がする。

 本書の英語原題『Perfect Rigor(完全な厳密さ)』は、ペレルマンを言い表す言葉としてふさわしい。

 

 数学者をはじめとした科学者たちが、論文執筆のためにプレプリントサーバを使っていることを知ったのは、本書がきっかけだった。その慣習は『永遠についての証明』本編でも活用している。

 また、主人公である三ツ矢瞭司の人物造形にあたってはガロアエルデシュラマヌジャンなど多くの数学者を参考にしたが、そこにはペレルマンの影響もある。

 瞭司はペレルマンと同じく社会を拒絶したのか、あるいは社会から拒絶されたのか。その行く末を見届けていただければ、望外の喜びである。