雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <3>

 採用試験を受けた会社のなかで、この会社だけは、あなたのやりたいことは何ですか、と質問しなかった。エントリーシートでも面接でも一貫してされたのは、あなたは仕事にやりがいを求めますか、という質問だった。わたしは訊かれるたび、やりがいはいりません、と答えた。そのおかげか、わたしは採用された。内々定をもらってすぐに就職活動はやめた。

 ランチタイムに二階の食堂で昼食をとっていると、同期の広崎が挨拶もせず向かいに腰をおろした。丁寧な化粧にフレアスカート。こちらも挨拶をせず、一瞥しただけで食事に戻る。二人して、しばらく無言で食事をしていた。広崎のメニューはハヤシライスで、彼女は長い髪を無造作にかきあげながら器用に食べ、五分で昼食を終えた。

「午前中、チェコにあたった」

日本製品?」

「そう」

「珍しいね。チェコ

 広崎の仕事は、あらゆる緯度経度とEANコードの関係を明らかにすることだった。EANコードというのはバーコードの下に記載されている十三桁の数字である。広崎は同じ情報管理部だが、彼女のフロアは一階にある。倉庫の片隅にデスクを置き、運ばれてくるあらゆる製品と緯度経度を照合する。

 先日、午前半休を取って昼前に出勤した折、喫煙所から出てきた広崎と出くわした。社員用通用口と倉庫の搬入口は隣り合っている。目の端に倉庫の冷たい灰色の壁が見えた。気がつけばわたしは、今どういう仕事してるんだっけ、と広崎に尋ねていた。別に変わらないけど、と答えが返ってきて、ちょっと見せて、とわたしは頼んだ。

 倉庫に立ち入った広崎は、青いビニールシートの上に並べられた食品が示す場所を次々口にした。チョコレートサンドイッチはモンゴルのエルデネト。クラフトビールはロシアのウグレゴルスク。徳用醤油はカナダのケベック。わたしの知らない地名をこともなげに読みあげる。

 すべての緯度経度に対応するEANコードを特定し、地球上のあらゆる場所をEANコードで表現するのが、この仕事のゴールである。広崎は北緯東経担当で、もうひとり、南緯西経担当がいるらしい。ゴールに到達するまであとどれくらいの労力がかかるのか、という質問には意味がない。わたしたちにとってゴールは達成しなければならない目標ではなく、砂漠に出現した蜃気楼のように、永遠に手が届かないと知りつつそれでも追いかけなければならない存在だからだ。

 日本のEANコードは45か49ではじまるため緯度がほぼ一定で、半分くらいは太平洋の海上にあたるという。広崎は以前、陸地に当たるだけでラッキーな気分になる、と話していた。陸地であればモンゴル、カザフスタン、カナダ、ロシア、中国などが対応するらしい。チェコにあたったという話を聞くのは初めてだった。

「実は初めてじゃないんだけど。そうあることじゃないから」

 広崎は上唇をひくつかせていた。どこか得意げだ。この女は仕事にやりがいを感じている、と悟った。やりがいを感じるのは、この会社では仕事ができない社員の典型的な特徴だ。やりがいを感じる社員は、いずれ仕事に失望する。いつしか仕事以外の何かに熱中し、自然と仕事への興味を失い、会社に寄生する存在となる。仕事にやりがいを感じない社員のほうが、よほど長続きする。

「明日からはベルギーの輸入雑貨をやるんだ。日本以外を担当するのは久しぶりで」

 嬉しそうに語る同期を前に、淡々とアジフライを食べた。いずれ彼女も別の生きがいを見つけるのだろう。わたしは違う。わたしはこの仕事にやりがいなど感じていない。今日も明日も、この先もずっと、社員のひとりとして仕事をこなすだけだ。咀嚼するたびに食物を細かく砕く歯のように、雇用主に抵抗することなく、与えられた役割をまっとうする。優秀な社員は勝手に歯茎から抜け出したりしない。

 午後の仕事を終え、三十分だけ残業をして会社を出た。通用口から表に出ると、自然と倉庫の搬入口近くで作業をしている広崎の姿が目に入る。彼女は鬼気迫る表情でキーボードを叩いていた。何がそれほどまでに仕事への衝動をかき立てるのか、わたしには理解できなかった。今頃、広崎はどのあたりを漂っているのだろう。オーストリア、ドイツ、スロバキア。北緯45度と北緯49度を、もう何度往復しただろう。

 自転車を漕いでいる間、やや泥っぽい水の匂いが頬を撫でた。ダム放水のあと、町はこの匂いに包まれる。上流の泥土が押し流され、濁った水が勢いよく河口へむかう。意識の表層に上らない程度の微妙な不快さを感じたが、わたしにとってサイレンと泥の匂いはセットになっている。不快さはあっても、不機嫌ではなかった。行く手には、何度も緑色を上塗りしたような色の山があった。濁流の源とは思えないほどの静けさをたたえて、山は町を見下ろしている。