雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <7>

 もしここにいれば、今、わたしの隣には彼女が座っているのだろうか。写真でしか知らないその女性が齢を重ね、後部座席の左側に腰をおろしている様子を想像してみる。何度もした想像だが、そのたびに架空の彼女の細部は異なる。彼女は靄のように曖昧な輪郭で、つかまえたと思った端からぱっと消えてしまう。雨の日のフロントガラス越しに見る景色のように、湯気のかかった眼鏡を通して見る風景のように、どれだけ目をこらしても見つめることができない。

 あの墓石の下に眠るのは、わたしの生物学上の母だった。写真にうつった顔が、母について知っていることのすべてだ。

 母にまつわる話をきちんと聞いたのは十三歳のときだったけれど、月に一度の墓参が亡くなった母を悼む行為だということは、それ以前から何となく知っていた。折に触れて父たちの会話に〈あの人〉として登場するのが母であることも、ふたりの口ぶりの温度から察知できた。わたしは父たちから十分な愛情を受けていたし、なぜかそれが失礼な行為のように思えて、自分から母の話をせがむことはしなかった。

 中学一年の八月、墓参りの日の夜だった。夕食を終えて部屋に戻ろうとするわたしを、重雄さんが呼びとめた。リビングに移動したわたしたちを、和馬さんはソファで待っていた。わたしがソファに身を沈めると、いつものように右側に和馬さん、左側に重雄さんが座った。左利きの和馬さんは、右利きのわたしや重雄さんといるときは必ず右側に座る。いつもと違うのは、正面にあるテレビの電源が切られていることと、父たちが醸し出すかすかな緊張感だった。スエードのような滑らかな手触りが、コンクリートの壁を撫でたような粗っぽい感触に変わる。

「もう気づいてるかもしれないけど」

 切り出したのは和馬さんだった。右側をむいたせいで重雄さんの表情はわからなかったけれど、眼差しを後頭部に感じた。

「毎月、お墓参りに行ってるだろう」

「もう気づいてるよ」

 和馬さんの探るような言い方がもどかしく、つい自分から言ってしまった。今度は重雄さんが口を開く。

「どこまで」

「どこまでって……別に。母親なんでしょう。生物学上の」

 とりわけ最後のひと言を強調した。重雄さんはうつむいて、そっか、とつぶやいた。それから、和馬さんが説明してくれた。父たちと母が出会ったとき、すでに母の死期が近づいていたこと。父たちが子を望むように、母もまた子を望んでいたこと。わたしの誕生日の二か月前に母が亡くなったこと。

 話を聞きながら、わたしはいらだっていた。なぜ、今頃になって急に母のことを聞かされているのだろう。わたしにとっての親は和馬さんと重雄さんであって、卵子を提供してくれた女性に感謝の念がないわけではないけれど、その女性のことを実感とともに〈母〉だと思うことはできない。わたしには〈母〉はいない。だから、墓参りのこともできるだけ意識しないようにしてきたのに。それなのに。意識の底をほじくりかえされ、わたしがひとつの受精卵から発生したのだということを思い出させられる。その女性の遺伝子がわたしの身体に存在しているという事実が、鋭い刃のように突きつけられる。

 空調の送風音が耳障りだった。寒気がして、腕を見ると鳥肌が立っていた。

「もう、いい」

 和馬さんの話を遮り、腰を浮かせた。重雄さんがすかさずわたしの背中に手をあてた。

「あと少しだから」

 渋々腰をおろして話を最後まで聞いたけれど、わたしの感想は変わらなかった。わかったのは、母が卵子バンクに登録していなかったことと、二十八歳で亡くなったことくらいだった。父たちがどうやって母と知り合ったのか、ぼやかされたせいでよくわからなかったけれど、あまり気にならなかった。質問あるか、と和馬さんが訊いた。

「なんで今さら」

「今だからだよ」

 答えたのは重雄さんだった。

「十年以上も父親たちの習慣につきあわせて、申し訳なかった」

「そんなこと思いながら連れて行ってたんだ」

「だから、これからは好きにしていい」

 ふたりの父が互いに目配せをした。

「僕らはこれからも毎月、あの霊園に通う。それは許してほしい。でも、これからは強制しない。嫌だったら行かなくていいし、今までと同じように行ってもいい。とにかく来月から、お墓参りは家族行事じゃない」

「何それ」

 わたしは思春期らしい短慮さを発揮し、重雄さんの発言を鼻で笑った。

「好きにしていい、って言うけど、本当は来てほしいんでしょう。だから、今までわたしをお墓に連れていってたんでしょう。強制じゃないから、来月からは嫌だったら行かなくていいから、って、そんなこと言いながら、行きたい、ってわたしが言うのを待ってるんだよ。それくらいわかるから」

 注意深く重雄さんの顔色を観察し、落胆の色が浮かんだ瞬間にそれを指摘するつもりだった。ほら、がっかりしてる、と。けれど、重雄さんはやや疲れたように眉尻を下げただけだった。まるで駄々をこねる子供をあやしているような表情。わたしはさらにむきになった。

「だいたい、今の話だけじゃ何も感じない。そんな話聞かされても、その女の人を母親だなんて思えない。お墓に行く気にもならない。どうでもいい。そんな人のこと、知らない」

 名前は訊かなかった。名前を知れば、わたしがその女性を母だと認めたことになるような気がした。生物学上の母には違いないが、心から〈母〉だとは思えなかった。ふたりの父がいることに何の不満もなかった。わたしは泣き出したい気持ちをこらえて、いたずらにわめき散らした。