雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <8>

 前触れなく、すっと席を立った重雄さんは父たちの寝室に消えた。気まずさを感じる間もなく、すぐに戻ってきたその手には、光沢のある用紙に印刷された一葉の写真があった。無造作に差し出された写真を受け取り、そこに映った人物の姿を一瞥する。眼鏡をかけた、化粧気のない、黒いミディアムヘアの女が正面をむいている。まともに視線があい、思わず裏に向けてしまう。この女が、わたしの生物学上の母。そう思うと直視するのが怖かった。呼吸が浅く、早くなる。両隣に座るふたりの父に動揺を悟られるのが嫌で、わたしはそっけない表情をつくって写真を表にひるがえした。

 年齢は三十を少し過ぎたところだろうか。目はきれいな一重。細い鼻筋が顔の中央に影をつくり、薄い唇はぴたりと閉じられている。染みひとつない白い頬に、ペン先を落としたようなほくろがちらばっていた。楕円のレンズがはまった眼鏡はメタルフレームで、その面差しをいっそう冷たく見せている。市松模様のブラウスを身につけ、後ろには白いトタンの壁を背負っていた。

 近視で、いつも度のきつい眼鏡をかけてた。父たちのどちらかがそう言ったのが、かろうじてわたしの耳に届いた。

 これが、とつぶやいたきり、言葉が続かなかった。彼女の顔のパーツを点検し、自分の顔と似たところを探そうとした。しかし写真を凝視するうちに、自分がどんな顔をしていたのか思い出せなくなった。右手を写真から離し、指先で鼻や唇をなぞってみても、顔の造作を思い浮かべることができない。人差し指の爪の先を下唇に引っかけたまま、わたしは喉を震わせた。

「別に、知りたくなかった」

 父たちが動揺する気配を感じた。

「ふたりは父親としての自信がないの。なんでうちで母親の話をしなきゃいけないのか、意味がわかんない。わたしには母親がいるべきだと思ってるんじゃないの。だからせめて母親が生きていたころのことを話してやろうって、哀れんでるつもりかもしれないけど、そんなのふたりの身勝手だよ。そんなこと頼んでないし」

 付け焼き刃の反抗は自分でもしらじらしく感じられた。ふたりの父はそんなわたしを見て怒るでも悲しむでもなく、静かな目をしていた。わたしは写真を重雄さんに押しつけ、リビングを離れて自分の部屋にこもった。ドアの鍵をかけ、タオルケットに上半身を突っこんでベッドに横たわった。水色のタオルケット越しに円形の照明がぼんやりと光り、ひとつ目の化物のようにこちらを見つめていた。父たちは部屋を訪れなかった。無意味なドアの鍵は翌朝までかけられたままだった。

 あの女の顔はしばらく脳裏に焼き付いていた。誰を見ても、写真にうつった眼鏡の女性を思い出した。学校の教師を見ても、クラスメイトを見ても、スーパーマーケットの店員も買い物客も、河原の釣り人も、群れて歩く大学生も。誰を見ても、わたしはそこに彼女の面影を探した。目元の涼やかさや肌色の白さを脳裏の記憶と照らし合わせては、彼女の遺伝子が世界中に拡散するさまを妄想した。

 あの女はわたしの生物学上の母だ。それは否定できない。でも、あの女はわたしの母であると同時に、他の誰かの母かもしれない。ひとりの女性が複数の卵子をバンクに提供することは珍しくないと聞いたことがある。彼女はバンクに登録していなかったと和馬さんは言っていたけれど、父たちに隠していただけかもしれない。わたしは少しでも、あの女とのつながりを薄めようと腐心していた。

 翌月、わたしは霊園に行かなかった。あらかじめ墓参りに行く日は知らされていたが、わたしは行くとも行かないとも応じず、その日は朝から一歩も部屋の外に出なかった。無意味かもしれないと思いつつ、また鍵をかけた。和馬さんが何度か、起きてるのか、とか、そろそろ行くから、とか声をかけてきたけど、一度も返事をしなかった。やがて昼前に屋外からエンジン音が響き、家のなかが静まりかえったことを確認してから、わたしは鍵を開けた。家には誰もいない。窓から差す日に、埃が躍っていた。

 どういうきっかけでわたしの墓参りが再開したのか、実はよく覚えていない。翌年の一月には墓石に積もった雪をはらった記憶があるから、ボイコットは半年と持たなかったはずだ。墓参りに行かなかったのは、その一度だけだったのかもしれない。ともかく、母の話をされた直後は正体不明の苛立ちに襲われたものの、じきにお墓に行くか否かはさほど重要でないと判断し、わたしはまた重雄さんが運転する車に乗り、和馬さんと三人で墓参りに行くようになった。

 それから十年あまりが経ち、さすがに苛立ちは消えたがその代わりに、彼女はどんな人間だったのだろうという疑問が頭をもたげた。きっと父たちの知り合いでなければ、興味を持つことはなかった。普通、男性カップルが子供を授かるときは匿名で卵子の提供を受ける。そうであれば、生物学上の母の人柄など気にもしなかっただろう。しかしわたしは彼女の顔を知っている。父たちの口から語られる生前の彼女の様子を知っている。もう少し母について知りたいと思うのは、父たちに対して失礼なことだろうか。

 ゲノム配列を扱う仕事についたのは、偶然ではない。就職活動では遺伝情報を扱う企業にエントリーし、今の会社から内定をもらった。わたしは普段の仕事と並行して、勤務中は常に別のプログラムを走らせている。数千万人分のゲノム配列が格納されたデータベースにアクセスし、わたしはわたし自身の配列と相同性の高い配列を常に検索している。自分の配列を会社のコンピュータに入力するのは少し勇気が必要だったが、母の配列を探し当てるためならそれくらいの犠牲は払ってもいい。

 データベースに収納された配列はすべて個人情報だが、業務の性格上、データベースへのアクセスは不自然でも何でもない。ただし、ゲノム配列をパーソナルライブラリと照合し、氏名や住所と紐づけることは違法だ。それが許されるのは遺伝情報取扱一級の有資格者だけであり、三級のわたしにはアクセス権がない。わたしの身のまわりでそれができるのは直近の上司である主任だけだ。ともあれ、ゲノム配列さえ手に入ればあとは何とでもなる。お金はかかるけれど、専門の業者に頼んで個人情報を手に入れる方法もある。配列さえわかれば、その人間の身元は割れたも同然だ。

 後部座席にはひとり。ふたりに増えることはない。来月も、再来月も、わたしは後部座席を独占し続ける。