雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <10>

 だから、二週間後に広崎が河原で化石を発見したと聞かされたときには、ちょっとした驚きがあった。驚きといっても大声をあげるような類の感情ではなく、へえ、といつもよりやや高い声で相槌を打つ程度だった。化石を発見したことより、本当にその場所に行ってみたのだという事実のほうがわたしにとっては印象的だった。

 何の化石、と肉うどんをすすりながら尋ねるわたしに、ミロクンミンギア、と広崎は答えた。右手で握った箸でエビフライをつかみ、小ぶりな口へ運ぶ。

「何それ」

「セキサクドウブツの一種だって」

 平板な声は、広崎にもその生き物の正体がわかっていない証拠だった。漢字は思い浮かべることができる。脊索動物。問題はそれがどんな姿形をしているか、だった。広崎に発見した化石を見せてくれるよう頼むと、広崎はスマートフォンの画面をこちらにむけた。河原で撮影したのだろう、灰色の石が転がる広場を背景に、広崎らしき人物の手の上に化石が乗っている。手のひらより少し大きいくらいの化石には、扁平なナメクジのような、微笑する唇のような模様が刻まれていた。大きさは五センチメートルくらいだろうか。わたしはスマートフォンで、ミロクンミンギアをウェブ検索してみた。凹凸のない、ぬめやかな、口をすぼめた深海魚のような想像図がいくつも表示された。

「化石なんて興味あったっけ」

「全然。河原でぼんやりしてたら、たまたま見つけただけ」

「じゃあ、なんで化石ってわかったの」

 広崎は左手の人差し指を顎にあててしばし中空を見つめてから、だって化石じゃん、と答えた。彼女にとっては一目瞭然らしい。こんなものが河原に落ちていても、わたしは絶対に化石だと気づけない。そもそも、河原の石ころの表面に注意を払ったことなどない。広崎にはわたしとは違うものが見えている。

 謎の化石を発見した広崎は相談先として県立博物館を選んだ。博物館の学芸員には正体の判断ができなかったが、伝手を頼って考古学の研究者に問い合わせてくれた結果、妙な模様の石ころがミロクンミンギアの化石であることが判明した、らしい。

「すごい発見みたいよ、これ」

 五億年以上前の化石だって。日本では今まで見つかったことないし、世界でもそんなに例がないみたい。広崎は他人事のように言う。さしたる感動もないが、学術的に意義のある発見であることは間違いないらしい。今、県立博物館はメディアの取材対応に追われているところだという。広崎はすでに化石を博物館に寄贈し、身元を明かすことを頑なに拒んだため、取材に付き合わされずに済んでいる。ミロクンミンギアの化石が報道されれば、あの河原は考古学研究のメッカになるだろう、と学芸員が興奮していた。話はそれで終わりだった。まるで週末にアウトレットモールへ行ったことを話すように、広崎の口調はそっけない。

 わたしは違和感を覚えずにはいられなかった。造花のEANコードがあの河原を指すと知ったときには緊張を抑えきれない様子だった広崎が、急に冷めてしまったように見えた。しかも、五億年を超える途方もない時間を経た古代生物の化石を発見したというのに。当てが外れた。広崎の態度からはそんな感想しか読み取れなかった。

 エビフライを食べ終えた広崎が何事かをつぶやいた。わたしはそれを聞き取れず、え、と訊き返したけれど、広崎は答えずにトレイを持って席を立った。すぐに追いかけるのが恥ずかしい気がして、空の丼を前にしばし待ってからわたしも食堂から立ち去った。廊下を歩いている最中、時間差で、つぶやきを脳が捉えた。

 捨てればよかった、と彼女はつぶやいていた。何を。化石を、に決まっている。おぼろげながら、彼女の思考の筋道が浮かびあがってきた。わたしは自分のデスクに着席し、午後の仕事を再開しつつ、広崎のことを考えていた。目と指先さえ動いていれば、この仕事は空想しながらこなすことができる。工場のライン作業と同じだ。

 広崎は、造花が示したあの場所に運命めいたものを感じていた。あそこは彼女にとって特別な場所だった。しかし、それまで寂しい土地だったあの河原は、化石が発見されたことで、近いうちに人であふれる。彼女にとっての特別な場所でなく、あらゆる人にとっての特別な場所になる。聖域は侵された。哀れな気はしたけれど、化石を捨てなかったのは彼女の判断だ。自業自得といえばきついかもしれないが、もし他人を恨んでいるのならお門違いだろう。考古学者たちに罪はない。

 わたしはマウスを操作し、切り捨てられたゲノム配列を選択する。どんなに長大なゲノムでも、構成要素はA、G、T、Cの四塩基に過ぎない。淘汰され、捨てられた膨大な塩基配列が、電子データとして蓄積されていく。この仕事が何のために存在するのか、わたしは知らない。忘れ去られた配列は、いつか未来のために役立つのだろうか。

 ミロクンミンギアは人間とは似ても似つかないけれど、その異星から来たような魚が進化して人間になったという事実は動かせない。ヒトのゲノム配列にはミロクンミンギアだったころの痕跡が残されている。これ以上、動かぬ証拠があるだろうか。現代人がいかにピンとこなくとも、その古代生物が存在した時代を猛烈に早送りすれば、姿形は爬虫類のようなぬらりとした皮膚を持つ動物に変わり、猿となって陸上での生活を営み、二足歩行をはじめて道具を使うようになるのだ。

 ここに至るまで、膨大な配列が捨てられてきた。環境に適応しない配列は淘汰という装置によって容赦なく切り捨てられ、突然変異によって新たな配列が生まれ、不要なものはなかったことにされる。わたしたちが視線を注ぐのは、いつだって〈今ここにあるもの〉だ。かつてあったもの、切り捨てられたもの、伝えられなかったものに思いを馳せるのは化石を探しにやってくるであろう考古学者たちくらいのもので、圧倒的に多数の人は自分にかかわらない限り、目の前のものしか意識できない。

 広崎はもう造花を捨てただろうか。彼女をあの河原に導き、一度は運命を感じさせた造花の花束。スミレを模した花弁の薄紫色は鮮やかだった。植物が花を咲かせるのは、花粉を運ばせるために虫を引き寄せ、種の存続を有利にするためだ。では、造花は何のために咲くのだろう。人の手によってつくられ、人の目を楽しませるためだけに咲く造花は子孫を残さず、次代に受け継がれない。造花の遺伝子はその一代きりで果てる。それでも造花はミロクンミンギアと同じくらい、美しい。

 花は枯れるからこそ美しい、なんて言説をわたしは信じない。審美眼は人それぞれだ。人工物より自然な生命の営みのほうが美しいなんて、誰も決めていない。朽ちるか朽ちないか、受け継がれるか絶たれるか、そんなことには関係なく、美しいものは美しく醜いものは醜い。胸を張って、わたしはそう言いたい。

 たとえ次代に残らなくても、美しいものは存在する。