雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <12>

 耳に真空が流れこんできて、鼓膜が震動を止めた。重雄さんはうつむけていた顔を上げて、一瞬、こちらをにらんだ。その視線に射すくめられ、肩をそびやかした。わたしの気持ちを読んだように、重雄さんはすぐに目つきをやわらげる。なに、と唇が動いた。今ならまだ、聞き間違いということにできる。でもわたしはそうしなかった。

「わたしを産むとき、和馬さんの精子を選んだのはどうして」

 今度は音を失わなかった。雨粒が窓を叩く音が、風に揺れる門扉がきしむ音が、ふたり分の息遣いが聞こえる。中深皿には食べかけのロールキャベツが残っている。キャベツはほどけ、崩れた肉塊がスープに沈んでいる。重雄さんは冷めた皿を見つめていた。

「もしかして、はっきりした理由があるって期待してる?」

 ああ、そうだ。わたしは生物学上の父が和馬さんであることに、何らかの意味を見出そうとしていた。今の今まで、自分がそう思っていたことに気づいていなかった。自分がふたりの子供であるという権利を振りかざして、わたしという存在に至るまでの物語が存在するはずだと、勝手な妄想を抱いていたに過ぎない。

「大した経緯なんかないよ。俺のほうにしよう、ってあっちが言ったから、それに賛成しただけ。別に自分のじゃないと嫌だったわけじゃないし。だから、何かはっきりした理由が欲しかったんなら、ごめん、特にない」

 なーんだ、と言えればよかった。できるだけ明るい声音で、理由ないの、と反応できれば。しかしわたしの口から吐き出されたのは無音の真空だけだった。重雄さんは厚いカーテンの奥に本心を隠している。どうにかして、そのカーテンを引き裂いてやりたかった。わたしの声は裏返っていた。

「母親を選んだ理由はあるのに」

 生物学上の母はバンクの登録者ではなかった。彼女は他のきっかけで父たちと知り合い、卵子を提供することを決めた。少なくとも、卵子はランダムに選ばれたのではない。父たちはバンクに登録された卵子を選ぶこともできたのに、そうしなかった。意思を持って選択したのだ。その理由は知らなくても仕方がないと思っていた。でも、カーテンを裂いてやるために、それが鋭利な刃だと知りながら問いを発した。重雄さんはかさつく手をこすりあわせた。表情には怒りも焦りもない。困惑は見え隠れしていたものの、本心は閉ざされたままだった。刃はカーテンの奥まで届かなかった。続くわたしの言葉は、雨音に閉じこめられたまま体内に留まった。

「理由って、そんなに大事なの」

 凪いだ重雄さんの表情を見ていると、返す言葉が思いつかなかった。苛立ちが萎え、さっきまでの発言が恥ずかしくなってくるが、今さら引っこみもつかない。わたしはカーテンの向こうを覗こうとする姿勢を貫いた。

「自分の遺伝子を残したいって思わないの」

「自分か恋人、どちらか一方の遺伝子しか残すことができないなら、恋人の遺伝子を残したいと思うのは、そんなに不自然なことかな」

 カーテンの裾が翻り、ほんの少しだけその奥にあるものが見えた。けれど、わたしは愚かな質問を後悔していた。沈黙を納得と受け取ったのか、重雄さんは食事を再開した。冷めちゃったね、という声はいつもと何も変わらない。わたしは食べかけの夕食に箸をつけようとしたが、食欲はすっかり失せていた。ごちそうさま、と皿をシンクに片付けて自室にこもった。食器を洗うのはわたしの役目だけど、今はやりたくなかった。

 ベッドに寝そべってじっとしていると、視界に入るものすべてが静止しているせいで、この世界に動くものなどないような気がしてくる。寝返りをうつと、ひとつだけ動くものが目の端に入った。滑らかに動く掛け時計の秒針だった。一秒ごとにカチカチと時を刻むのではなく、盤上を滑るように回転するタイプの秒針。じれったくなるような速さで動く秒針を見ていると、二十四年という時の長さを思い知る。あの写真にうつっていた誰かさんの卵子と、和馬さんの精子が接合したのは二十四年とおよそ一年前。それから一千万回以上も秒針が回転して、ようやく今に至る。その間、重雄さんは一秒も後悔しなかっただろうか。自分の遺伝子を受け継ぐ相手がいないことを。

 五億年前に生きていたミロクンミンギアの遺伝子を受け継いで、わたしたちはここにいる。先人たちは、ヒトと呼べる存在になるよりずっと前から、種の存続を目的に生きてきた。進化は目的じゃない、手段だ。自分たちの遺伝子を残すために有利な手段を選んだ結果、進化に行きついたに過ぎない。そうだとすれば、あえて愛する人の遺伝子を残すことも、そのほうが有利だと考えたのであれば、種の存続のために選んだ手段だ。

 重雄さんは本能に従って選択をした。そこにちゃちな感傷が付け入る隙はない。

雨音が強くなってきた。窓や屋根を打つせわしないリズムを聞いているうちに眠気を覚え、そのまま眠ってしまうことにした。衣類を脱ぎ捨て、リモコンで照明を落として、布団のなかに潜りこむ。睡魔はすぐにやってきた。

 翌朝、聞きなれた騒音で目が覚めた。夜明け直後の町にサイレンが鳴り響いている。また、放水がはじまる。ランニングシャツの男がダムのほうをにらんでいる姿が目に浮かんだ。出鼻をくじかれた考古学者たちは機嫌を悪くしているかもしれない。出勤まで時間があることを確認してから、布団のなかで身体を丸めた。

 ダム底の集落で暮らしていた住民たちは、今頃、どこで生活しているだろう。今でもこの町で暮らしているのか、それともここから遠く離れたどこかにいるのか。泡立つ水面の下で、住民たちのかつての住処は水棲生物の楽園と化している。二度と行くことのできない水底に沈んだとしても、わたしなら、少しでも近くで生活を営みたいと思う。それもまた本能だろうか。

 布団から抜け出し、シャワーを浴びるために静かな階下へ降りた。父たちはまだ眠っているのか、ポットに湯はなかった。わたしは電気ケトルで湯を沸かしてお茶漬けをつくり、余った湯をポットに注いだ。早朝のお茶漬けは信じられないほどおいしく感じられ、空腹だったことを思い知らされた。