雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <13>

   *

 

 夕刻の名残りをかすかにまとった夜。乗客で埋まった座席を見やり、ドア脇の空間に身を滑りこませる。乗降する人の迷惑になるかもしれない、と思わないでもなかったが、いったんそこに陣取るともう動きづらい。若干の気まずさを抱えながら、目的の駅までそこにいることにした。電車が都心部へ近づくにつれ、窓の外の景色は質を変えていく。いつの間にかくすんだ住宅街を抜け、ところどころに高層ビルがそびえる。

 電車に乗るのは、いつ以来か思い出せないほど久しぶりだった。普段の出勤やちょっとした買い物ならば自転車で済む。月に一度の墓参りは重雄さんが運転する車に乗って行く。休日に友達と会うことも滅多にないから、遠方へ行く用事がそもそもない。そんなわたしが久々に電車を使ったのは、同期社員の歓送会のためだった。ほとんどの同期社員がそうであるように、今日の主役である男について、顔はおぼろげに覚えているものの、何の印象も残っていなかった。会話を交わした記憶も、同じ場所にいた記憶もない。向こうもまた、わたしのことなど気にも留めていないだろう。声をかけられたのは同期だからという、それだけの理由に過ぎない。

 目的の駅で降りて、完全に夜と化した空気のなかを歩く。わたしが住む町よりずっと賑やかで、さまざまな匂いが入り混じっていた。食べ物や煙草や体臭や、芳香剤。雑多な匂いが混じりあって鼻腔を刺激する。逆に、わたしの町でいつも感じている泥水を薄めたような匂いはここにはなかった。居酒屋の客引きは七時まで割引だと叫び、道行く人々を呼び止めていたが、ひとりで歩いているわたしには声をかけてこない。電飾の下、通行人を避けて歓送会の会場を目指す。

 駅前の繁華街のただなか、高層マンションの一階にその居酒屋はあった。喧騒が店の外にまで漏れている。マンションの住人はさぞかし迷惑だろうと思ったが、よく見ると居住者用の出入口は反対側に設けられているらしい。それでも、二階の住人は夜ごと酔客が騒ぐ声を聞かされるのだからたまったものではない。たまにダム放水のサイレンが鳴るよりもずっとつらいだろう。

 歓送会の参加者たち十名あまりが、店の奥にある座敷に集っていた。開始時刻を過ぎているため、宴会はすでにはじまっている。皆、わたしの姿を認めると、おお、とか、まあまあ、とか、あまり意味のない声をかけてくれる。先に会社を出たはずの広崎を目で探したが、そこにはいなかった。今日の主役である男は皆の中央に座っていて、遅れて来たわたしに手を振った。一応小さく手を振り返し、参加費を幹事に支払ってから、入口に一番近い空席に腰を下ろした。座敷の空席はわたしの向かいだけだった。

 わたしは遠慮なく注文したウーロン茶を飲みながら、皆の話に耳をかたむけた。どうやら、退社する男は地元に帰って公務員になるらしい。入社して二年そこそこで公務員に転職する理由を問うと、最初から腰かけだったらしいよ、と本人に代わって別の男が教えてくれた。わたしの眉間に刻まれた皺を目にした彼が教えてくれたところによれば、退社する男には地元のコネがあり、大学を卒業してからは好きなときに公務員になることができたのだという。ただ、どうせいつでも公務員にはなれるのだから、新卒から数年は別の仕事を経験してみたいと思い、この会社に入ったのだという。公務員に大したコネがあるとは思えないが、実際に転職するのだから、少なくとも退社する彼にはコネが存在するのだろう。腰かけ、という言葉の使い方は間違っているような気がしたけれど、それは咎めるほどのことではなかった。

 宴が進むとともに、卓上を飛び交う声は高くなる。昼、食堂で会ったときは行くと聞いたが、依然として広崎の姿はない。広崎遅いね、と何気なく言ってみたところ、そういえば広崎とうまくやってるの、と名前も忘れた同期に尋ねられた。うまくやるも何も、そもそもトラブルが生じるような関係ではない。普通、と答えると、相手はそれ以上何も訊いてこなかった。そういえばさ、と今度はふくよかな女が心持ち興奮した口調で言う。

「年末くらいに産まれるんでしょう、子供」

 わたしのことを言われているのかと思った。産む予定なんかないよ、と応じると、そうじゃなくて、と大げさに笑いながら彼女は否定した。

「広崎の子供。聞いてないの」

 いたんだ、子供。そうつぶやくと、みたいよ、と女は急にそっけなくなってその話題は打ち切られた。わたしへの気遣いのつもりだったのかもしれない。広崎に子供がいたことは知らなかったが、ショックではなかった。年末に産まれるということは、体内妊娠なら七か月くらいの時期だが、広崎のおなかはまったく大きくなっていない。きっと体外妊娠なのだろう。ごく普通の選択だ。わたしが産まれた二十数年前はまだ普及の過渡期だったが、過半数が体外妊娠を選ぶ現在、広崎の選択は自然なものだ。それに体内妊娠だと産休の間、働けない。仕事にやりがいを見出す広崎には無視できないデメリットだろう。

 そろそろ飲み放題の注文が締め切られるという頃になって、ようやく広崎が来た。遅いよお、と声をかけられた広崎は、顔に笑顔を貼りつけてわたしの向かいの席に腰をおろした。ひとりだけ単品で生ビールを注文し、形ばかりの乾杯をする。同じ面子での会話に飽きはじめていた同期たちは、しきりに広崎に話しかけた。さっきわたしにうっかりと子供のことを漏らしたふくよかな女が前のめりになる。

「子供の誕生日、いつだっけ」

「十二月の二十七」

 正面に座る広崎が、わたしを一瞥した。彼女はまだ、子供のことをわたしに話していないと思っている。さっきの女とのやり取りを説明するのも面倒で、ウーロン茶を飲むふりをして目を逸らした。同期たちは質問の手を緩めない。

「性別は」

「女」

 広崎の子だったら絶対美人だよね、と名も知らぬ誰かが言った。

「名前はもう考えたの」

「候補はいくつかあるけど、まだ決めてない」

「育休は」

「ちょうど年末に産まれるから、年始から育休もらう」

 誰もパートナーについて質問しないことから、わたしは悟った。皆は、広崎がひとりで親になろうとしていることを知っている。バンクの精子で受精したのか、パートナーがいたけれど受精後に別れたのか、そこまではわからないが、とにかく彼女がひとりで母になることは確かなようだった。