雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <14>

 広崎への質問が一段落したところで退席の時間が来た。店員に急かされてもまだ未練がましくジョッキを握っている同期たちを置いて、わたしは席を立った。じゃあ、またね。誰にともなくそう告げると、近くにいた数人が同じ台詞を返した。スニーカーを履いて外に出ると、繁華街の賑わいに出迎えられた。駅の方向を目指して歩くわたしの横に、誰かが並んだ。振り向かずとも誰かわかった。

「あえて遅刻したよね」

 広崎は悪びれる様子もなく、うん、と答えた。駆けてきたのか、やや息があがっている。わたしは学生時代から、二次会には行かないことにしている。広崎も同じ主義らしく、研修期間から宴会の後はふたりで帰宅することが何度かあった。

「ごめん、子供のこと言ってなくて」

「いや、別に」

 曖昧な返答に広崎はうなずいた。自然と歩調が合う。わたしたちはぽつりぽつりと言葉を交わしながら、通行人の多い駅までの道のりを歩いた。

「パートナー、いないんだよね」

「そうなんだ」

「私、昔から誰のことも好きになれないから」

「へえ」

「今までずっと、誰も好きになれなかった」

 横目で広崎をうかがう。その美しい鼻のラインも、とがった顎も、親から受け継いだものだろうか。

「誰のことも好きになれない。それなのに、子供が欲しいって思うの、おかしいかな」

「おかしくないと思うよ」

 こちらは時代遅れの悩みを吐露されて困惑するばかりだった。わたしが子供のころから、パートナーがいない親は一定数いた。当時よりさらにそういう家庭が増えた今、広崎の悩みは過去の遺物と言っていい。妊娠七か月の親が、今さらそんな悩みを抱えていることに呆れるしかない。

 動物が生きるのは種を残すためだ。逆説的には、種を残せるのであれば、男女でペアになろうが同性でペアになろうが、ひとりで親になろうが三人で親になろうが、それは本人の自由だ。生殖技術は、わたしたちの価値観をそういう風に更新した。誰も好きなれないけど子供が欲しいというのもまた、本能だ。

「育休の間は実家帰るの」

「実家には、帰れない」

 広崎は何か言いたそうに口を開いたが、結局は一語も発さないまま唇を閉じた。わたしはあえて詮索をしなかった。無理をして聞くほど、彼女の家庭事情に興味はない。居酒屋の延長線上にある子供の話題に飽きたわたしは別のことを話した。

「化石の人たち、まだいるみたい」

 化石の人たち、というのは重雄さんと話すときの呼び名で、つまりは広崎がミロクンミンギアの化石を発見したあの河原で作業をしている学者たちのことだ。町に来てから三週間が過ぎたが、芳しい成果が得られないため、フィールドを徐々に上流へ移しているようだ、という重雄さんから得た情報を話す。そうなんだ、と広崎はうつむいた。

 駅のホームに降り立つと、数分後に普通列車が来た。電車を待つ客の大半は次発の急行が目当てらしく、乗ったのはわたしたちをふくめて数名だけだった。わたしの町の駅には普通しか停まらない。車内はがらがらで、空席が目立つ。先を歩いていた広崎がボックス席に座ったため、わたしはその向かいに落ち着いた。やたらと静かな車両には、車輪が線路を噛む音と車掌のアナウンスだけが響いていた。時間が経つほどに、夜の街に瞬く電灯の数が減っていく。空は本来の闇を取り戻していく。

「親って、どんな人」

 広崎のつぶやきがわたしへの問いかけだと気づくのに数秒かかった。どんな人って、と反問すると、体格とか性格とか、と返ってきた。親のことを尋ねられれば、極力答えるのがわたしの性格だった。たとえ相手が悪意を持って質問したとしても、堂々と応じる。わたしには卑下するところは何もない。

「うちは父親ふたり。体格はどっちも普通。性格は、よくわからない」

「母親のことは知ってるの。卵子提供者。バンクなら知らないか」

 間髪を入れず重ねられた問いに、どきりとした。それでもまだ平静を保っていた。

「顔だけ。あと、近視だったことも」

 中学一年のあの日、どちらの父が言ったのかわからなかったけれど、生物学上の母である彼女が近視だったということは、メタルフレームの眼鏡とあわせて明瞭に覚えている。広崎は黒い切り絵のような外の景色を眺めながら、何気なく言った。

「近視って遺伝するんだっけ」

「するらしいけど、わたしは近視じゃない」

「じゃあ、遺伝しなくてよかったね」

 そのひと言が、わたしの心の中庭に刃を突き立てた。遺伝しなくてよかった。その言葉はひどく不遜に感じられた。広崎はこちらの不快感に気づくそぶりもなく、熱のこもらない視線で窓を見ている。ガラスに映りこんだ彼女の顔はひどく冷淡だった。わたしは広崎という女を持て余していた。時に愚かで無邪気なようであり、時に残酷で突き放すようなふるまいを見せる。他人に怯えているようで、プライベートに土足で踏みこんでくる。わたしは霧の向こうへ石を投げるように、言葉をぶつけた。

「広崎の親は」

「男と女。父親は建設会社で現場担当。母親は弁当工場のパート。足の形と鼻は父親似で、目と口は母親。ふたりとも生まれた地域で知り合って、付き合って、結婚してからもそこに住んでた。今時、珍しいよね」

 冗舌に語っていた広崎は、漏らした吐息にか細い声を乗せた。

「もう、いないけど」

 町が近くなり、列車は橋に差しかかる。橋上からは町を横断する一級河川を見下ろすことができた。夜の川は墨で塗りつぶしたように黒い。河原にいくつかの小さな光が灯されていて、目を凝らすとそれらは懐中電灯の光だった。考古学者たちの一団は、こんな時間にまで作業をしているのだろうか。広崎は無言だった。

 駅に到着すると、わたしたちは何も言わず降車した。改札の先で別れ、広崎は駅前のコンビニに入った。わたしはまっすぐに自宅へ向かう。街灯がまばらに輝く夜の住宅街を、一心不乱に足を動かす。夜の空気には、ここにいないはずのものたちの気配が満ちていた。かつてこの町で生きていた者の息遣いが聞こえる。空耳とは思えないほど生々しく、体温が感じられる息遣いだった。そのなかに母の吐息が混じっているのではないかと思い耳を澄ましてみたが、聞こえてくる幾千もの呼吸から聞き分けることは到底不可能だった。息遣いは次第に数を増していく。今にも取り憑かれそうな予感に怯え、わたしはなかば駆け足で自宅を、光に満ちた家を目指した。