雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <15>

   *

 

 そのときは唐突に訪れた。

 いつものように職場で単調な作業をしている午後、ディスプレイの隅にくすんだ赤色のポップアップが表示された。拍動が止まるほど驚いた。それは、プログラムがわたしのゲノムと相同性の高い配列、つまりは生物学上の母を探し当てた合図だった。呼吸を整えるのももどかしく、わたしは作業を中断し、ポップアップをクリックした。耳に栓をしたように聴覚を失い、喉が渇いていた。指先の震えを自覚しながらプログラムを操作し、該当の配列を表示する。六十億塩基対のDNAが激流のようにディスプレイを横切る。A、G、T、Cの四文字がめまぐるしく現れては消える。

 嫌でも思い出すのは、あの写真の顔だった。眼鏡をかけた白い肌の女。

 これがあの女のゲノム。わたしの半身を構成する遺伝子配列。

 知りたい、と思った。彼女がどんな名前で、いつ生まれ、どうして亡くなったのか。しかしわたしの権限ではパーソナルライブラリにアクセスできない。それができるのは主任だけだ。斜向かいの席に座る主任は、白髪まじりの短髪をしきりに掻きながら、ノートパソコンと接続したディスプレイを食い入るように見つめている。グループウェアで主任の予定を確認すると、四時から打合せとなっていた。わたしは四時十分前になるまで待ち、デスクの引き出しからあらかじめ用意していたUSBメモリを取り出した。心臓の鼓動はすでに収まっていた。

 主任の傍らに立ち、すみません、と声をかける。振り向いた主任の顔に警戒の色はなかった。パソコンのウイルスチェックをお願いできますか、と切り出すと、案の定、これから打合せなんだけど、と返ってきた。

「主任は外勤多いし、できれば今日中にお願いしたいんです。これ差して起動してもらえば、打合せが終わったころにはチェックも終わってるはずなんで」

 わたしが他人に何かを強く頼むことは珍しい。主任はやや戸惑った表情を浮かべたが、わかった、とUSBを受け取った。素早くマウスを操作し、ファイルを開く。遺伝情報を扱うこの会社では、頻繁にウイルスチェックを行っている。いつもと同じファイルを主任は疑いなく起動し、打合せのため足早に席を離れた。起動したファイルに仕込まれた遠隔操作アプリには気づいていない。自席に戻ったわたしはさっそく、自分のコンピュータから主任がログインしたノートパソコンを操作した。打合せは一時間の予定だった。時間の余裕はない。

 パーソナルライブラリへのアクセスはすべて記録される。業務外の目的でゲノムの持ち主を検索した証拠は消せない。私的な目的でライブラリを閲覧することは違法だ。仮に主任がこの検索記録に気付けば、実行した日時から真っ先に疑われるのはわたしだろう。そうなれば、遠隔操作アプリのことも発覚するに違いない。きっと言い逃れはできない。それでも躊躇はしなかった。

 ライブラリに、データベースからコピーしたあの女のゲノム配列を入力する。膨大なデータサイズのため入力処理には数分かかった。わたしは目を見開き、焦れるような速度で処理が進むのを待った。ひとりでに足先が貧乏ゆすりをしている。入力が完了し、すぐさま検索を開始すると、プログラムはものの数秒で目的の人物を探し当てた。一覧化された彼女の個人情報が目の前に表示される。この情報は持ち出せない。わたしはすべての情報を網膜に焼き付けるため、ディスプレイをにらんだ。

 マウスを動かす指先が、生年月日の欄で止まった。

 その女性の誕生日は、ちょうど百年前だった。間違いかと思ったが、何度見ても、彼女の誕生日は百年前だった。つまり、わたしが産まれた二十四年前に彼女は七十六歳。例の写真にうつっていたのは三十代の女性だった。あれはわたしが産まれた頃ではなく、もっと昔に撮影された写真だった。死因の欄に目を移すと、結核となっていた。

 脳内のキャンバスが塗り替えられる。二十代の父たちと、三十代の女が談笑している光景。談笑の中心には赤子のわたしがいる。わたしを見守る女の横顔が、七十六歳に上書きされる。そうか。そうだよな。若いころの写真を残したことに罪はない。わたしはまだ、彼女の人生について何一つ知らない。

 彼女の個人情報に目を通し終えたわたしはライブラリを閉じ、遠隔操作アプリの接続を断った。主任は一時間を過ぎても打合せから戻ってこなかった。わたしはぼんやりした気分で主任を待っていたが、定時を過ぎても戻ってこないため、USBを主任のパソコンに差したまま帰宅することにした。頭の片隅が痺れているせいで、不正の証拠を放置することへの不安はほとんど感じなかった。

 終業後も雲の上を歩いているような心持ちは続いた。自転車を漕ぐ足の感触は妙に軽く、それでいて身体がだるい。川のほうから漂ってくる水の匂いをいつもより薄く感じたのは、一時的に嗅覚が衰えていたせいかもしれない。自宅には誰もいなかった。早く帰ったときはわたしが夕食の支度をすることもあったけれど、今日はそんな気になれなかった。二階の自室に入り、服も着替えずベッドの上に寝転ぶ。眠ってしまいたかったが、睡魔が訪れる気配はない。何を考えてもうまくまとまらない。