雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <17>

 そうとしか考えられない。だって、わたしが和馬さんと似ているはずがないのだから。わたしのゲノムには、和馬さんの遺伝子は組み込まれていないのだから。スタンドミラーをのぞきこみ、改めて自分の顔を点検した。二十数年、上向いた鼻と奥二重に気を取られていた。だってそんなはずがないと思っていたから。重雄さんと血がつながっているなんて思ったことがなかったから。重雄さんの唇は、ぽってりと分厚い。重雄さんの耳は、透けて見えそうなほど薄い。重雄さんの額は、指が三本入らないくらい狭い。唇の厚さも、耳の薄さも、額の狭さも何もかも、重雄さんから受け継いだものだった。

 世界が反転した。鏡のなかの頬に朱がさしている。どんどんどん、という太鼓の音が止まらない。視床下部は調子はずれに体温上昇の指令を出し続けている。手のひらばかり汗をかいて、熱が内部にこもっていた。

 玄関を解錠した音の直後、ただいま、という声が階下で響いた。和馬さんの声だった。わたしは戸惑っていた。初めて、父と顔を合わせることが怖いと思った。もう、見なかったふりはできない。顔を合わせれば、わたしは訊いてしまう。先には延ばせない。

 勇気を振り絞って一階に降りた。和馬さんはスーツのまま、リビングでスマートフォンをいじっていた。薄くなってきた頭頂部が証明を反射している。重雄さんはいない。わたしは念のため、重雄さんの仕事用の革靴がないことを確かめてリビングに戻った。和馬さん、と名を呼ぶと、首だけでこちらに振りむいた。

「ちょっと、いい」

 声音から異様な雰囲気を感じ取ったのか、和馬さんはスマートフォンを懐にしまった。わたしはその正面に立ち、まじまじと和馬さんの顔を観察した。上向きぎみの鼻。奥二重の目。血縁関係の証拠だと思っていたそれらは今、まるで赤の他人のようによそよそしくたたずんでいる。何のことはない。上向きぎみの鼻も、奥二重の目も、よくある特徴に過ぎなかった。声が震えそうだ。喉に力を込めた。

「なんで嘘ついてたの」

「どの嘘のことかわからないけど」

精子を提供したの、重雄さんでしょう」

 和馬さんは顔色を変え、鼻の穴をふくらませた。

「ハードディスクの配列、読んだ」

 わたしは直立したまま、両拳を握りしめた。勝手に引き出しを漁ったことは謝らなかった。和馬さんは手のひらで顔をなでると、大きな溜息を吐いた。サッシに薄暮の色がにじんでいる。

「ごめん」

 素直に謝られても、今まで嘘をつかれていたことを許す気にはなれなかった。和馬さんは時おりこちらの表情をうかがいながら、筋っぽい肉を噛みちぎるように話した。唇の間から何度か犬歯がのぞいた。

「決めたんだ。遺伝子は残さないって」

「どうして」

「残す価値がないから。残すなら、重雄の遺伝子がいい」

「なんで嘘なんかついたの」

「重雄は知らない」

 はっとした。単独行動を告白した和馬さんは雑草を噛みしめている。無断でどうやって重雄さんの精子を採取したか、そこまで尋ねる気は起きなかった。些末な問題だし、ふたりのプライベートにかかわることだから、子供とはいえ詮索する権利はない。ただ、無断で実行に移した理由を聞く権利はあると思った。

「相談して、重雄さんの精子を提供するって言えばよかったのに。そうしたら、嘘なんかつかないで済んだのに」

「うぬぼれてるわけじゃないけど」

 和馬さんはそこでいったん言葉を切った。

「嘘つかないとさ。たぶん、重雄も同じことしてた」

 冷水を浴びたようにすっと体温が冷えていく。手の甲が、足が冷たい。二の腕に鳥肌が立っている。

 父たちは互いに、パートナーの遺伝子を残すべきだと思っている。もし重雄さんの精子を提供することになっていれば、きっと重雄さんはどうにかして和馬さんの精子とすり替えていただろう。その場合、わたしは和馬さんの遺伝子を受け継いでいたことになる。重雄さんの遺伝子を確実に残すためには、和馬さんが嘘をつくしかなかった。

 重雄さんの声が蘇る。自分か恋人、どちらか一方の遺伝子しか残すことができないなら、恋人の遺伝子を残したいと思うのは、そんなに不自然なことかな。

「そういうわけだから、薄毛の遺伝子は組みこまれてない。よかったな」

 和馬さんは引きつった顔で冗談を言った。笑おうとしたが、わたしの顔もうまく動かなかった。開いた口の意図をごまかすため、わかりきったことを尋ねた。

「わたしが産まれたとき、重雄さんに似ていたから嬉しかったんだよね」

 和馬さんは上体を前に傾け、そのまま浮き上がってこなかった。肯定の合図だった。うつむいたまま、黙っててくれ、とかすれた声で和馬さんは言った。わたしは父たちの諍いを見たくはなかったから、和馬さんの願いを聞き入れることにした。