雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <18>

   *

 

 立ちこめた暗雲が太陽を遮り、真昼だというのに薄暗い。激しい風と雨が窓を打つせいで、屋内にいても台風を意識しないわけにはいかなかった。風がひゅるひゅると鳴く音は、週末の予定を潰された人々の嘆きに聞こえた。わたしたち三人もそのくちだ。今日は墓参りの予定だったが、この風雨ではとても外に出られない。昼食は冷蔵庫に残っていた焼きそばで済ませた。重雄さんはリビングで録りためたテレビ番組を見ている。和馬さんは寝室で持ち帰った仕事をしている。わたしはリビングの様子をうかがいながら、ダイニングでスマートフォンをいじっている。

 和馬さんの告白を聞いてからも、生活は何ひとつ変わらなかった。重雄さんには何も伝えていない。伝えたところで、ふたりがわたしの父であるという事実は変えようがない。それならば、わざわざ伝える意味はない。もしかしたら、重雄さんはわたしの様子に何か違和感を覚えているかもしれない。でも和馬さんと約束したからには、わたしから打ち明けることはない。

 雨足が弱まってきた午後二時過ぎ、地鳴りのような音が町に鳴り響いた。ダム放水のサイレンだった。平時よりもはるかに音量が大きいように感じられ、思わず顔を上げてリビングを見た。重雄さんはちらりとこちらに顔を向けただけで、テレビに視線を戻した。

「いつもより、うるさくない」

「ちょっとうるさいかもね」

 気のない返事だった。そうは思っていないのだろう。わたしは不安を押し隠し、スマートフォンで台風の被災状況を確認した。この町で何か異変が起こっているかもしれない。サイレンは一向に止まない。神経を逆撫でする音は、わたしの頭骨の内側から発せられるようだった。役場のウェブサイトで、小さな事故が発生していることを知った。町外れの山で土砂崩れが発生していた。勢いを増した川の水が崖を侵食した。

 思い出したのは、あの女が眠る霊園だった。川沿いにある霊園はいつ水に侵されてもおかしくなかった。土壌が崩壊し、いくつもの墓石が川面へ身を投げる姿が目に浮かんだ。妄想だと言い聞かせても、不安は消えない。衝動的な不安だった。

「ちょっと、出てくる」

 え、という重雄さんの声を背中で聞いた。波のようにうねる音に心臓を揺さぶられ、わたしは駆け出していた。ここから自動車を飛ばして、霊園までおよそ四十分。今すぐここを出れば、放水がはじまるまでに帰ることができる。心臓が耳の横で鳴っている。サイレンのううううと心臓のどんどんどんが原始的な音楽を奏でている。耳障りなセッションを聞きながら、車のキーを取り、玄関を駆け抜けた。

 傘をさしてパーキングに飛びこみ、運転席に身体を滑りこませる。雨がルーフパネルを打つ音を間近に聞きながら、アクセルを強く踏みこんだ。玄関のドアを開いた重雄さんが、走り去るわたしを呆然と見ていた。

 運転は久しぶりだったが、じきに勘を取り戻した。弱まったとはいえ風雨の勢いはまだ強い。路上にはほとんど車影がなかった。河原の考古学者たちも、今日は研修センターにこもっているはずだ。川沿いの道路をひた走る間も、ダムから発せられるサイレンが止むことはなかった。

 あの霊園は侵されてはならない。どんな豪雨と暴風に晒されようが、あの場所は守らなければならない。霊園と川を隔てるのは、ちっぽけなブロック塀だけだ。それではあまりにも心もとない。わたしが行っても何もできないかもしれないが、せめて様子を確かめずにはいられなかった。

 墓参りのために毎月たどる道を走り、霊園の駐車場に車を停めたわたしは横殴りの雨のなかに飛びだした。霊園には生物の気配はなかったが、水と風とがせわしなく目の前を行き交っている。傘は二割ほどしか用をなさず、脚や肩は墓前にたどりつくより先に水浸しになってしまった。温かい雨だった。ぬるい風呂に身体を沈めているようだった。

 墓石は無事だった。雨のせいで霊園は濡れているけれど、川からあふれた水に侵されてはいなかった。川と敷地とを隔てるブロック塀を遠目に注意深く観察すると、上から頭をのぞかせていた土手の木が見えなくなっていることに気づいた。知らないうちに塀は高さを増していたらしい。わたしが心配していたことなど、霊園の持ち主はとっくに把握していたのだ。

 女の墓石には、先月供えたはずの花がなかった。代わりに供えられているのは、薄紫色の花束だった。手を伸ばして花弁に触れると、本物の植物にはない、繊維の目の粗さが指先に伝わってきた。これは造花だ。広崎を河原の化石へと導いた、フランス製の造花。それが今、ここにある。わたしは傘をさすことも忘れて駐車場へ戻った。サイレンは気づかないうちに止んでいた。

 場所の見当はだいたいついている。農業法人の研修センターから、歩いて十分もかからないと重雄さんが行っていた。来た道を戻り、途中で研修センターの方向へハンドルを切った。ルーフパネルの雨音は暴力性を緩めない。

 センターに到着する直前、フロントガラスの向こうを人影が横切った。反射的にブレーキを踏むと、幸いスリップもせず停車した。こちらをふりむきもせずに走るのは、傘もささず、ずぶ濡れで駆ける女性だった。黒い長髪は肩や背中に貼りつき、フレアスカートが腿にまとわりついている。その鬼気迫る横顔を、見間違えるはずもなかった。広崎、と窓を閉めたままの車内で叫んだが、彼女は足を止めなかった。聞こえるはずがない。わたしは豪雨のなかに降り立ち、再度彼女の名を呼んだが、背中は小さくなる一方だった。