雑誌岩井圭也

小説と雑文

不伝子 <終>

   *

 

 徐々に眠りが浅くなる。ばらばらだった意識の断片がつなぎ合わされ、不規則に像を結ぶ。睡眠と覚醒のあわいで、ここしばらくの間に起こった出来事が意識の上をよぎっていく。

 台風の翌月、広崎は会社を辞めた。本人の希望で歓送会は開かれなかった。わたしは職場で、どうせなら育休に入ってから辞めればよかったのに、という感想を耳にした。少し前までは、広崎自身も育休を取ると言っていた。それでも辞めたのは、仕事に意味を感じなくなったせいだとわたしは推測していた。彼女があの仕事に熱中していたのは、自分の居場所を示してくれるものを探していたからだ。居場所が見つかった今、仕事を続ける意味はない。

 会社を辞めた後の広崎がどこへ行くか、わたしはランチタイムの食堂で聞いた。川で見つけたドアノブが示す場所へ転居する、と最終出社日の広崎は嬉しそうに話した。どうやったのか知らないが、彼女はあのドアノブのEANコードを探し当てたのだ。それは彼女の故郷の一部なのだから、ドアノブが示す場所が新しい故郷になる、という理屈は、一応は通っているように思えた。広崎はその地で、自分の遺伝子を受け継ぐ新しい命を育てるのだろう。

 こうして広崎との関係は途切れた。

 河原の学者たちは台風の数日後にこの町から去った。重雄さんが教えてくれたところによれば、収穫はほとんどなかったらしい。ただし、それだって本当かわからない、と重雄さんは付け足した。ライバルの研究者を出し抜くための嘘かもしれないし。わたしはもはや興味がなかった。ふうん、そんなもんかな。

 年末、突然主任から呼び出され、十二月三十一日付での解雇を告げられた。あまりにも唐突な出来事に口をきけずにいると、主任は無念そうな表情を浮かべて、理由はわかってるね、と言った。確認するまでもない。警察に突き出されなかっただけ、ラッキーと思わなければならない。おかげで資格喪失はまぬがれた。

 そういうわけで、わたしは新年早々、無職になった。それでも後悔していない。残念だけど、しょうがないよなあ、という感じ。人に誇れるスキルなどないけれど、これでも一応、遺伝情報管理の資格は持っている。次の仕事は何とかなるだろう。そう気軽に構えて、数か月、無職の生活を楽しむことにした。

 家族の関係に変化はない。和馬さんは今でも重雄さんに精子提供者のことを話していない。でも重雄さんだって、和馬さんやわたしに対して秘密のひとつやふたつはあるはずだ。我が家では今まで、互いの距離感をわきまえて暮らしてきた。それがこれからも続くだけで、どっちが精子を提供したかなんて些細な問題に過ぎない。

 わたしは子を産まないかもしれない。わたしは遺伝子の乗り物じゃない。遺伝子を残すことだけが生物にとって正義であるはずがない。それを淘汰というなら、わたしは淘汰される側で構わない。ただ生きていれば、それで十分だ。

 わたしは受け継がれることのなかったすべての塩基配列に愛を捧げる。この世から消え去った遺伝子に敬意を送る。絶滅したミロクンミンギアを悼むために歌う。受け継がれなければ無意味だなんて言わせない。孤独な細胞を見捨てない。

 早朝に目覚めたわたしは、真冬の冴えた空気に肩をすくめて階下へ降りた。まだポットに湯は入っていない。無職になってからというもの、なぜだか早寝早起きが身についた。使う予定はないけれど、重雄さんのために電気ケトルで湯を沸かした。すでに正月休みは終わり、社会は順調に動きだしている。わたしは家から出ていないから、肌感覚としては知らないけれど、父たちの話を聞く限りではたまに電車が遅延するくらいで、おおむね社会は順調らしい。

 ふたりの父はまだ眠っている時間だ。家のなかは、ひかりの気配で満ちている。

 スイッチを入れ、リビングのコタツに足を突っこんだ。コタツを置いたのはわたしだ。三が日に押入れの奥へしまいこまれていたのを発見して、引っ張りだした。入ると出られなくなるから、と言って父たちは遠ざけている。おかげでコタツはわたし専用の家具になっていた。

 夜の気温で冷やされたコタツの脚が、はだしの足裏に触れた。

 冷たいね、と孤独な細胞がささやいた。

 

  〈了〉