雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <1>

 こめかみに流れた汗が顎先から足の甲にしたたり落ちた。首筋は汗にまみれ、綿のTシャツが肌に重く貼りついている。姿見には、がらんとした道場で孤独に素振りを続ける男が映っていた。自主練習を見守るのはクヌギにつかまって鳴いている蝉の群れだけだ。

 八角型の木刀を焦れるような速さで頭上に振り上げ、爪先まで振り下ろす。長さは三尺九寸で竹刀と同じだが、重さは三倍。柄の先から木製の柱が生えているような代物だ。腕力ではなく体軸で木刀を振る。回数が増すにつれ、肩や腰のぶれが目立ってくる。長い息を吐き、丹田に力を込めてふたたび振りかぶる。肩から腕にかけて電流のようなびりびりした感覚が走る。

 額から流れた汗が目に入り、思わず手を休める。タオルで顔や首を拭き、ふたたび素振りに戻る。三十年前に建てられた道場の冷房は、とうに壊れていた。少ない剣道部の予算では修理費用も捻出できない。弱いということは、学内での地位が低いということだ。

 網戸越しに見えるごみ捨て場には、ラグビー部が捨てたプラスチックごみのビニール袋が積まれていた。袋にはプロテインの包装がぎっしり詰められている。

 先週生協で目にした学内広報には、ラグビー部の一部昇格を祝う特集記事が掲載されていた。おれはその広報誌を持ち帰り、二度読んで捨てた。

 百回の木刀素振りを終えた後は摺り足の練習に移る。八角の木刀を中段に構えるだけで前腕が痺れてくる。そのまま全速力で摺り足。上体は彫像のように動かず、爪先は真正面を向けたまま。道場を三往復もすると剣先が震えてきた。まだまだ。蝉の合唱を聞きながら、十往復したところで休憩する。

 Tシャツを脱いでタオルで身体を拭いていると、隣接する武道場から気勢を発する声が聞こえてきた。少林寺の部員だろう。連中は「剣道部は専用の道場があるだけ恵まれている」と主張しているが、真新しい共用の武道場と、冷房の壊れた古い剣道場のどちらが幸せだろうか。好きな時間に自主練習ができるくらいしか、利点はない。

 道場を出て階下に降りた。一階にはフローリングの八畳があり、テレビや流し台、ソファが備えられている。その奥は左手に男子更衣室、右手に女子更衣室。背もたれのない丸椅子に腰をおろし、ボトルで薄めたスポーツドリンクを飲んだ。冷たい甘味が喉をすり抜けていく。壁掛け時計は八時半を示していた。部活まであと一時間。

 全道選手権のビデオを見ていると、一年の男子部員が入ってきた。今朝の当番らしい。顔がむくみきっている。腫れぼったいまぶたに寝ぐせのついた頭。寝巻きのまま来たのか、皺だらけのTシャツには汗染みがついている。おはようございます、と口走った口調はまだ夢の中にいるようだった。

「久原先輩、毎日早いですね。何時に起きてるんですか」

「六時」

「すげー、真似できないっすわあ」

 一年はリュックサックを更衣室に置いて、ドリンクの準備をはじめた。マネージャーのいない剣道部では、ドリンクや雑巾の準備、師範や先生方の防具を出し入れするのは一年生の仕事だ。ふてぶてしい一年はのろのろとドリンクを冷蔵庫にしまうと、別の丸椅子に腰をおろして、コンビニのおにぎりを食べはじめた。真面目だが、どこかどんくさい。この大学の剣道部はそんなやつばかりだ。

「地元、どこだっけ」

「え、何すか?」

 焼肉おにぎりに夢中の一年坊主は、口の端に米粒をつけたまま顔を上げた。

「地元どこ」

「宮城っす」

「一浪だったよな」

「はい。先月、二十歳になりました」

「全日本予選、出るのか」

 一年はぽかんとした表情で、全日本、とつぶやいた。すぐには意味が理解できないようで、数秒経ってから半笑いで手を振った。

「出ないですよ。出てもしょうがないじゃないっすか。自分、三段ですよ。警察とか刑務官とやって勝てるわけないですもん」

「実戦の良い機会だろう。出てみたらどうだ」

「久原先輩ぐらい強ければ意味があるんでしょうけど。自分が出ても、ちょこちょこっとやっただけで負けちゃいますよ。試合にもならない」

 冗談とも本気ともつかない自虐に、ふふっ、と笑っている。呆れて話すのをやめた。

 テレビに向き直ると、ちょうど画面の中の久原亮介が出小手を取られた瞬間だった。リモコンで巻き戻し、スローで再生する。技の起こりを完璧に捉えられている。実際、動きだした瞬間に打たれたとわかる出小手だった。面の印象が強すぎて、つい相面に出てしまったのがいけなかった。この一本が響いて決勝を逃したのだ。

 さっそく練習ノートを棚から抜き出し、気づきを書きこむ。ボールペンを走らせるおれの背後で、一年がおにぎりの包装をくしゃくしゃと音を立てて丸めていた。

 しばらくすると、寝ぼけた顔の部員たちがぞろぞろとドアをくぐってきた。皆、示し合わせたようにコンビニの袋を提げている。

 道着袴に着替えてテーピングを巻いていると、カーテンの向こうから同期の嘆く声が聞こえてきた。男子更衣室はカーテンで仕切られただけで、ドアなどついていない。

「あ、今日火曜か。忘れてた。はーあ、だりいなあ」

 おい、と誰かがたしなめた。おれがすぐ近くにいることを思い出したのか、同期は急に口をつぐんだ。さっさとテーピングを巻いて道場に行く。たまの二部練で音を上げるくらいなら、最初からサークルに行けばいい。

 夏季休暇に入ると同時に二部練習を提案したのはおれだった。月曜から土曜まで、午前は基本練習と掛かり稽古でみっちりと身体を動かし、午後は実戦形式での稽古。せめてそれくらい稽古をしなければ、北海道での地位すら危うい。

 ほとんどの先輩から反対された。インターンだとか卒業研究だとかほざいていたが、それでもミーティングのたびに二部練習を主張した。おれに勝ってから言えよ、と胸のうちで毒づきながら。そろって全道選手権初戦負けのくせに、よく言えたものだ。

 浅野先輩のとりなしで、火曜と金曜は二部練習を採用することになった。キャプテンの取り決めとあって四年もしぶしぶ従ったが、そのうち何やかやと理由をつけてサボるだろう。いっそ引退すればいい。

 休暇中とあって、部員ほぼ全員が顔をそろえた。等間隔で離れ、準備体操と素振り。八角型木刀の後に振る竹刀は小枝のように軽い。当番の一年は朝に弱いのか、顔をしかめて素振りをしていた。防具をつける前からこれでは話にならない。

 その日も、ほとんどの部員は惰性で稽古をこなしていた。気合いが入っているのは浅野先輩を含めて片手で数えるほど。せっかく週の六日を稽古に費やしても、これでは意味がない。強くならない稽古はエアロビと一緒だ。汗をかいただけで何事かを成し遂げた気になっている。道着袴に防具を身につけたエアロビ。

 締まらない空気のまま、基本練習がはじまった。