雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <2>

 午前の部が終わり、同期と連れ立って学食へ行く。男も女もTシャツ短パン。そういえばここ最近、バイト先の客以外で化粧をした女性を見ていない。

 一年の春に十四人だった同期は、夏に十人まで減り、それから一年経った今は七人。退部した理由は人それぞれだ。怪我とか、家庭の事情とか、勉強のためとか。しかし結局は、月曜から土曜まで切れ目なく続く稽古の繰り返しに耐えられなくなっただけだ。遊びやサークル、アルバイトに勤しむ同級生が羨ましくなったのだろう。それはそれで構わないと思う。問題は、やめずに残った連中が何を考えているのか、だ。

 その日は一人休んでいた。まぐろアボカド丼にむしゃぶりついている同期に尋ねた。

「倉橋って今日、なんで休んでんの?」

「知らねえ。また学科の何とかじゃねえの」

 倉橋の学部では二年から学科配属がある。四月の配属以降、倉橋はたびたび部活を休んでいた。学科の特別講習だか勉強会だかがあるらしい。夏休みに入ってからは稽古に出席している日の方が少ない。

 同期が六人になる日は近そうだ。マヨチャーシュー丼と坦々麺を交互に口へ運びながら、スパイスの香りが効いた溜め息を吐いた。

 おれたちは空腹にまかせて食物をむさぼり、ほぼ無言で昼食を終えた。学食から道場まで、二列縦隊でだらだらと歩く。天気のいい火曜の昼下がりだった。がらんとした構内を歩いているのは、同じく体育会の部員だけ。たまに女子が通りかかると、誰もが視線を吸い寄せられる。海いきてー、と誰かが叫んだ。

「なー、夜どっか飲みにいかね?」誰かが言い、何人かが賛成する。

「久原先生、今日もコンビニ?」

「うん。金ないから。皆で行って」

「ほんと久原って毎日毎日、剣道バイト剣道バイト、な」

 リズムが気に言ったのか、バイトバイト剣道剣道、とDJのモノマネをしながら無意味に繰り返している。まったくウケていない。名前の知らない鳥が校舎の陰で鳴いていた。

 退部したのは一般入試組ばかりで、部に残っている同期はほとんどがスポーツ推薦だ。さすがに高校まで必死こいて剣道をやってきただけあって、簡単に退部することはプライドが許さないらしい。しかし本音は面倒な部活なんてやめて、もっと楽しげなことをやりたいのだろう。

 客観的に見て、うちの剣道部は弱くもないが強くもない。団体でも個人でも毎年全国大会には出場できるが、一回戦か二回戦で負ける。三回戦まで行けばしばらく語り継がれる。二十年前に一度だけ団体で準優勝し、パンフレットの過去の結果に小さく大学名が掲載されているのがちっぽけな誇りだ。

 一流にはなれず、かといってプライドも捨てきれない。高校の貯金を浪費し、惰性で剣道を続ける二流の集団。それがこの剣道部だ。

 宮城の一年坊主にしたのと同じ質問を投げかけてみた。

「地元の全日本予選出るひと」右手を挙げる。おれ一人。

「やるねえ、久原先生」

 誉められているようには聞こえなかった。いつあるの、と質問。

「来月の終わりごろ」

「道警強いからなあ。けっこう厳しいんじゃない、久原三段」

 そんなことはわかっているが、地元は変えられない。北海道は全日本優勝者をはじめ幾人もの名剣士を輩出している。警察大会一部に所属する北海道警の強さは周知のことだ。

「厳しいけどさ、負けても勉強になるだろ」

「真面目ねー」女子部員が後ろ髪を指先でいじりながら言った。

 午後の稽古も特筆すべきことなく終わった。おれは浅野先輩とやって一勝一分け。その他は全勝。正直に言えば、浅野先輩でも物足りない。十回やって負けるのはせいぜい二回。部内で二番目に強い浅野先輩でもそうなのだから、残りの部員はほとんど練習台だ。

 弱くても、稽古を希望してくる部員ならかわいげがある。おれとの稽古を避けるような部員は、何を考えて道場に来ているのか理解できない。殺されるとでも思っているのだろうか。

 道場備え付けの洗濯機に、汗で重くなった道着を放りこむ。見学者が撮影した練習試合のビデオを見ていると、一年の男女が二人で道場を出て行った。おつかれさまです、と軽やかな声が響く。

「知ってた? あの二人、付き合ってるらしいよ」

 同期が教えてくれた。どうでもいい。へー、としか言えない。

 ビデオに意識を戻す。足さばきがまだ鈍い。手が先行している。もっと摺り足の練習を増やした方がいいのかもしれない。浅野先輩がソファに身体を沈めた。

「久原。道警の人、いつ来るか決まったか」

 身体を反転させる。浅野先輩は重たげな前髪を指でならしていた。剣道部にはおれを含めてオシャレな大学生はいないが、浅野先輩は数少ない例外だった。稽古後で誰の髪もぼさぼさだが、先輩だけはきちっとセットしている。ライトグリーンのポロシャツが爽やかだった。

「すいません、まだ返事なくて。来週の火曜か水曜だと思うんですけど」

「決まったらすぐ教えてよ」

「別に、気遣うことないですよ。練習したいって言いだしたのは向こうなんで」

「そりゃあ、久原は気を遣わなくてもいいだろうけど、他の皆は初対面だからな」

 慎太郎から連絡が来たのは七月の初めだった。うちの大学の稽古に参加したい、という申し出は意外だった。高校を卒業してから何度か会っているが、そんな話には一度もならなかったからだ。浅野先輩は細い足を軽やかに組んだ。

「その人、何て名前だっけ」

「稲田です。稲田慎太郎」

「道警の特練だろう。どうしてうちで練習したいんだろうな」

 特別術科訓練員、通称特練。警察官であり、剣道や柔道の訓練が業務の一部に組みこまれている。もちろんそれだけが仕事じゃない。たいてい機動隊に配属されているから、そちらの訓練も並行してこなすことになる。剣道エリートにとっては最もポピュラーな選択肢だ。

 北海道警の特練には全日本レベルの選手がゴロゴロいる。はっきり言って、うちの剣道部とは大人と子供くらいの実力差があった。慎太郎はまだ警察二年目だが、実力は十分だ。大人がわざわざ子供の稽古に足を運ぶ理由がわからない。

「仕事の都合じゃないですかね。近所に寄るから、とか」

 浅野先輩は腕組みをして首をひねった。納得していないようだった。思いつきで言っただけだから、おれ自身も納得していないのだが。

 五時半に道場を出た。自転車でコンビニに向かう途中、生協でおにぎりを買った。立ったまま、一分で食べ終わる。何か腹に入れておかないと休憩までもたない。包装を捨て、人気の少ない構内を走った。