雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <3>

 暗闇でも光りそうなくらい、派手なオレンジ色のポロシャツ。右胸には大きく〈L〉のアルファベット。この制服にセンスがないことは、いくらファッションに無頓着なおれでもわかる。左胸に〈くはら〉の名札をつけ、狭苦しい事務所兼男子更衣室を出た。大量の段ボールが積まれたバックヤードを抜ける。

 タイムカードで今日の相棒を確認する。バイトリーダーの宮村さんだった。このところ、ほぼ毎回宮村さんと入っている。リーダーだけあって仕事が速いのは助かる。

「いらっしゃいませー」

 店内に入る時と出る時には、必ず挨拶をする。レジで会計しているのが二人、立ち読み客が二人、菓子の棚の前に一人。今夜はまだそれほど混雑していない。品物の補充も必要なさそうだ。

 エルマート庁舎通り店は地下鉄の駅から徒歩二分という好立地だった。おれのシフトは午後六時から十二時まで。週三日か四日入って、だいたい月八万の稼ぎ。親の扶養から外れないぎりぎりの金額。これでアパートの家賃や部活にかかる費用や食費や携帯代やもろもろの生活費をすべてまかなう。一番きついのは遠方での大会だ。交通費と宿泊費でひと月分のバイト代が消える。こういう時、北海道在住だとつらい。最近、携帯を解約しようか真剣に悩んでいる。金のない家庭の息子が私大に通うのは大変なのだ。

 宮村さんはもうレジに入っていた。小柄な身体に着古したSサイズのポロシャツ。部活の女子部員と同様、化粧気はない。二十代後半のはずだが、正確な年齢はわからない。以前聞いたことがあるような気もするが、忘れた。黒髪を味気ないゴムバンドで束ねている。能面のように感情のない顔でタッチパネルのレジを打っていた。

 六時前にレジに入った。おつかれさまです、と宮村さんに声をかけるが、レジ打ちの最中なので返事はない。こっちも並んだ客の処理に集中する。二つのレジには切れ目なく客が並んだ。

 ようやくひと段落つくと、レジをおれにまかせて宮村さんは補充に飛び出した。メモも取らずに棚の商品を見て回り、バックヤードから品物をカゴに入れて持ってくる。あっという間に袋菓子の補充を終えると、今度はウォークインの冷蔵庫に入って飲料の補充。熟練の技だ。

 こっちはマイペースでレジを打つ。感覚として、およそ半数は常連客だ。野菜ジュースとサラダを買うOL風の女。麦茶とクロレッツを買う鳶のじいさん。さんざん立ち読みした末に2リットルのコーラを買っていくオタクっぽい若い男。こいつには店員の間で通じるあだ名がある。妖怪ページ濡らし。あいつが読んだ後の雑誌は必ず汗で湿っている。早朝に入っている女子大生など、雑誌を触る時は必ずゴム手袋をするらしい。

 サラリーマン風の五十歳くらいの男が入店した。メビウスおじさんだ。入店するなりレジに近づいてくる。無言でメビウスを出してやり、代わりに440円をぴったり受け取る。おっさんは一言も発さず、店を出ていった。ひと箱440円を毎日買えば、月にざっと一万三千円。贅沢な趣味だ。およそ二回分のバイト代。こんな計算ばかりが早くなる。

 一時間も二時間もぶっ続けでレジを叩いていると不思議な気持ちになる。物心ついてからずっと不景気だと言われているが、不景気の実感が一向にない。人間はこんなにも買い物をする。レジスターでは小銭と札が、アメーバの分裂のように瞬く間に増えていく。客たちの購買欲にこたえるため、バイトリーダーは汗水流して補充に勤しむ。

 高校時代には、こんな大学生になっているとは思いもしなかった。卒業式の後で、剣道部員はファミレスに集合した。部員の大半は大学への進学を選んだが、警察官や刑務官への第一歩を踏み出すやつもいた。副キャプテンの慎太郎も、一足先に社会へ出た。

 今では、やつらがまぶしく見える。大学に進む目的などない。ただのモラトリアムだ。強いて言えば、剣道に熱中できる環境がほしかったからだけど、それは言い訳に過ぎない。OBの特練員からは熱心に誘われていたし、実業団の勧誘も来た。より強い環境で鍛えたいという気持ちもあった。本当に剣道に熱中したければ、高卒で警察なり実業団なりに入ればよかったのだ。

 しかしそうはしなかった。選んだのは、中堅私大のスポーツ推薦だった。たいした強豪ではないことも、部員たちのやる気のなさも入学前からわかっていた。それでも進学を決めたのはおれ自身だ。誰を恨むこともできない。だからこそ余計にいらつく。

 そしてどんどん、孤独な稽古にのめりこんでいく。

 客の落ち着いた九時半、先に休憩に入った。棚からメンチカツパンと焼きカレーパンを取り、ウォークインからサイダーのペットボトルを抜き出す。品物をかかえて更衣室に戻る。会計は後回し。

 惣菜パンとサイダーを腹に詰めこむ。最近はこんな食事ばかりだ。おにぎりとパンと学食のメニューだけで生きている。たまに安い居酒屋で食べるサラダが、数少ない野菜の補給源だった

 ショルダーバッグに入れておいた携帯を確認すると、メールが返っていた。親指の先でボタンを操作する。部員は皆スマートフォンを使っているが、ガラケーで充分だった。SNSはやっていない。どうして皆、あんなに勧めてくるのか不思議でならない。

 メールは慎太郎からだった。バイト前に返事を催促したのだ。あいつもガラケーユーザーだった。

 〈火曜行く〉文面はそれだけだった。〈了解〉と返した。

 慎太郎と会うのは三月以来だ。春休み、実家へ帰ったときに二人で飲んだ。

 大学近くのアパートから実家までは徒歩と電車で一時間半。通えないこともないが、経済的なメリットよりも一人暮らしへの憧れが勝った。実家を訪れたのはバイト先の書類に判子をもらうためだった。エルマート全店を対象に契約書が一新したらしいが、どうでもいい変更内容で忘れてしまった。三月にはまだ未成年だったから、親の判子が必要だった。

 目的を達するとすぐに退屈になった。高校の同期たちを食事に誘ったが、都合がついたのは慎太郎だけだった。無理もない。高校卒業を機に、大半が地元を離れている。夕方に連絡して夜の都合がつく方が奇跡だった。

 駅前のチェーン居酒屋で慎太郎と飲んだ。警察学校がきついとか、そんなことを話した。何度も同じような話を聞いたせいで、主要な登場人物は覚えてしまった。厳しい太った教官や、大学院卒のひ弱な同期生、見上げるようにまぶしい特練の先輩たち。なんだかんで慎太郎は楽しそうだった。高校の頃と変わらない坊主頭が、剣道に生活を捧げている証拠に見えた。

 おれは何をしているんだろう。

 更衣室で物思いにふけっていると、不愉快なブザーが繰り返し鳴り響いた。宮村さんがレジ下の呼び鈴を連打しているのだ。食べかけのパンをデスクに置き、あわてて店内へ駆けた。レジには長蛇の列ができている。宮村さんが横目でにらんだ。

「遅いよ、呼んでたのに」

 すいません、とわざと大声で返す。並んでいた客がおかしげな顔をした。

 残りあと二時間。ラストスパートには少し早い。