雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <4>

 予告通り、慎太郎は火曜に現れた。

 いつものように素振りと摺り足をこなして、道場の前で慎太郎を待った。やつが来たのは部活開始の三十分前、九時ちょうどだった。坊主頭で竹刀と防具袋を背負っている人間なんて早朝のキャンパスにはそういないから、遠目にもすぐわかる。まだ部員は半分しか来ていなかった。

 慎太郎はワイシャツにスラックスという会社員のような格好だった。襟元から丸首の白いTシャツがのぞいている。

「いつもその服なのか」

「いつもは違う」むすっとした顔で慎太郎は答えた。

「いい加減な格好で来て、道警の印象が悪くなったら困る」

 若手警察官の鑑だ。さっそく道場の扉を開き、慎太郎を招き入れた。慎太郎は荷物を持ったまま、直角に頭を下げた。更衣室の前でじゃれあっていた一年たちが、ぎょっとした顔で振り向く。顔を上げた慎太郎は腹から太鼓のような声を出した。

「失礼します。わたくし、北海道警の稲田と申します。本日はよろしくお願いいたします」

 警察仕込みの挨拶だろうか。もともと力みやすいタイプだが、以前はここまでではなかった。呆然とする一年たちを尻目に、道場で竹刀の手入れをしていた浅野先輩がすっ飛んできた。慎太郎と挨拶を交わし、更衣室に案内する。さすがに腹が立って言った。

「浅野先輩にやらせるな。お前らが動けよ。一年の仕事だろ」

 素直な一年はあわてて浅野先輩の後を追うが、鈍い連中はまだもそもそ朝飯を食っている。いらつきで吐き気すら覚える。

「お前ら、OBの先輩がいらした時もいつもこうなのか。信じられん。飯食ってる暇あったら、竹刀防具持て」

 思い切り大きい舌打ちをくれてやる。鈍い一年たちはうなだれていた。

 着替える前に個室で用を足していると、小便をしている一年の声がした。

「久原先輩が呼んだなら、自分で世話してほしいよな」

 陰口を叩かれたこと以上に、そいつの想像力のなさに呆れた。背後の個室におれがいる可能性をなぜ考えないのだろう。もしかして、わざと? いや、あの気の弱さでそんなことはできない。下手くそな上段しかできないくせに。そんなに鈍いから、ひそかに上段ならぬ〈ご冗談〉と呼ばれていることにも気づかないのだ。

 道着袴に着替え、道場に出る。一年が雑巾がけの準備をしていた。ストレッチをしていた慎太郎が振り向いた。

「稽古、どんな感じ?」

「たぶん、お前には楽勝」

「そうだろうな」

 稽古前のたるんだ空気から、慎太郎は早くも何かを感じ取っているようだった。三年の先輩たちが連れ立って入ってきた。色褪せた道着に皺のついた袴。襟の後ろは擦り切れて破れている。同じ部にいる者として恥ずかしくなった。

 基本稽古と掛かり稽古が終わる頃には部員たちは息も絶え絶えだったが、慎太郎は涼しい顔をしていた。案の定、慎太郎には物足りなかったらしい。休憩に入って面を外した慎太郎は平然としている。

「もう休憩か?」

 呆れ顔で話す同じ歳の警察官に、同期の連中はむっとしたようだった。便所どこだ、と尋ねる慎太郎をトイレに連れて行く。個室には誰も入っていない。ならんで小用を足しながら、慎太郎は言った。

「亮介、体力落ちただろう」

 それは自覚している。だから、自主練で体力の衰えをカバーしようとあがいている。

「この部のやつら、全然ダメだな。中学生より体力がない。まともに剣道できそうなのはキャプテンぐらいか。後は話にならない」

 そこまでけなされると、かばいたくなるのが人情だ。

「特練基準で考えれば、大半の大学生は話にならないだろうな」

「バカ言え。高校基準でもダメだ」

 袴の裾を直して手を洗う。慎太郎は入口の様子をうかがいながら言った。

「あいつらもスポーツ推薦だろ? 昔はもう少しましだったのかもしれないけど、今はダメだな。一年生が一番元気いいんじゃないか」

 ドアを開けて、三年の先輩が入ってきた。お疲れさまです、と慎太郎はすかさず礼を送る。ぬかりないやつ。

 昼食には、慎太郎を学外の定食屋に連れていった。学生街のど真ん中にある、安くて盛りの良さが売りの定食屋だ。夏休みだというのに、店内はマンガを読む学生で混み合っていた。壁一面に棚が設えられ、手垢や日焼けにまみれたマンガが押しこまれている。慎太郎は棚の前に立って物珍しげに眺めると、巻数がばらばらに並べられた美味しんぼの一冊を手に取って席に戻った。

「この辺の定食屋は、みんなこんなシステムなのか」

「システムってわけじゃないけど」

 慎太郎がマンガに熱中しているので、退屈を持て余した。マンガは読み飽きたし、携帯をいじる癖もない。ひたすら冷水を飲みながら、昼食が運ばれてくるのを待った。隣の席では同年代の男がジャンプを読みながら器用にかつ丼を食べている。こういうやつらが普段何をして生きているのか、おれにはわからない。

 やがて日替わり定食のAとBが運ばれる。おれはAの豚玉子炒め定食に手をつけた。中華だしの匂いを漂わせる炒め物は、大盛り過ぎて皿から溢れそうになっている。慎太郎はマンガを読み終え、B定食のアジフライをかじった。子供の手のひらくらいあるアジフライが四切れもある。

 おれたちは高校時代と同じように黙々と食事をたいらげ、店を出た。少し重かった、とつぶやきながら慎太郎は腹をさすっていた。中学生の制服のような格好でなければ、暇をもてあました大学生にしか見えない。

「学生生活って楽しい?」

 慎太郎は何気ない風を装っていたが、それが大事な質問であることがわかった。伊達に中学からの付き合いではない。

「悪くないよ。剣道に集中できるし、友達もできるし」

「悪くない、ねえ」

 おれの答えには不満のようだった。慎太郎は感情を整理するように、黙って歩いた。こちらも急かさず、横を黙って歩く。正門からキャンパスに入ると人気が少なくなる。芝生では白人のカップルが寝転がっていた。

「警察官にはよくわからんけど、大学三年になったら民間の就職活動がはじまるんだろう。姉貴が二度とやりたくないって言ってたけど、そんなに大変なのか」

 慎太郎には三つ上の姉がいる。剣道は高校でやめてしまったらしい。

「おれもまだ知らない。四年の先輩見てると大変みたいだけど」

 就職活動で部活を休む先輩は多い。面接のために日本中を飛び回る人もいる。そこまでして入りたい会社があるなら、それはそれで幸運なことだ。やりたいことがはっきりしているのだから。おれにはまだ、どうしても入りたいと思える会社はないし、やりたいと思える仕事もない。

「教師になるのか」

「まだ決めてない。教員免許は取るけど」

 教職の授業を取るのは面倒だが、教師の資格くらい取っておかないと大学に来た甲斐がない。それに、おれから剣道を取ったら何も残らないのだ。

 慎太郎が左手首の腕時計をのぞきこんだ。真新しいカジュアルブランドの時計に、初めて気付いた。高校生の時は腕時計なんかしているところを見たことは一度もなかった。おれの視線に気づいたのか、慎太郎は左手首を得意げに掲げた。

「社会人になるのも悪くないぞ。小遣いやりくりしてた高校生の時とは比べ物にならない」

 一万円といったところか。その価格帯の腕時計を自慢するべきかはともかく、自由に使える金が増えたのは事実のようだった。おれにはその時計を買う余裕はない。

「慎太郎に使われるんじゃ、金の方もかわいそうだ」

 つまらない強がりをいうのが精一杯だった。ふん、という鼻息が隣から聞こえた。