雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <5>

 午後は軽く基本稽古をやってから、練習試合に入った。もちろん慎太郎にも入ってもらう。午前来ていた四年の先輩数人は、実験があるとかで欠席していた。浅野先輩は少しさびしげに見えた。

 最初は慎太郎と浅野先輩の試合だった。主審はおれ。

 様子をうかがう慎太郎に対して、浅野先輩は果敢に攻め入った。調子は悪くない。浅野先輩はやや小柄だが、跳躍力があり、意表を突いた面が得意だった。小手、胴と攻めて、かつぎ面が防具をかすったあたりで、ようやく慎太郎のスイッチが入った。先輩がふたたびかつぎ気味に面へ出たところに、すんなり面を合わせて一本。この面が効いた。大胆に前へ出られなくなった先輩の居着いたところを、面でもう一本。計三分半。

 慎太郎の相手を見切る目は、高校時代より格段に研ぎ澄まされていた。最小限での後退に、ここしかないというタイミングでの前進。相手が見えると、無駄な力が入らず、すんなり打突に移ることができる。理屈ではわかっていても簡単には実行できない。この一年ちょっと、警察学校や特練で揉まれた成果は着実に出ている。

 試合を見ていた部員たちは、特練員の剣道に圧倒されていた。団体レギュラーの連中はしきりに小声で話し合っている。対策でも話し合っているのだろうか。そんな小会議に意味はない。北海道団体二位、個人三位の実力は伊達じゃない。

 その次は二年と三年が試合をした。どちらも団体の選手だが、慎太郎と浅野先輩の後では小学生の剣道教室に等しい。審判を二つこなして、浅野先輩と交代した。

 慎太郎は防具も取らずに待っている。手拭いを巻いて面をかぶり、面金に通しておいた紐を締め上げる。汗に濡れた布地の匂いがむっと近づいてくる。こればかりは仕方ない。剣道という競技の宿命だ。こまめな拭きとりとファブリーズで対応するしかない。

 小手をつけて、三尺九寸の竹刀を構えてみる。剣先が示すのは道場の窓。暑さ対策のために開け放たれているが、防具をまとった状況では焼け石に水だった。皮膚のどこからか湧いた汗の滴が腕を伝っていく。試合前の緊張で臭いは感じなくなっていた。

 三年生同士のしょぼい試合が終わり、おれの順番になる。主審は浅野先輩。副審は四年生と三年生。誤審したら許さん。

 向き合って礼。開始線まで歩きながら、竹刀を抜き、蹲踞の構えを取る。慎太郎の垂れには〈北海道警察 稲田〉の文字が刺繍されていた。道警の名前がついているだけで強そうに見えるのは、まだまだ修行が足りない証しだろうか。

 号令とともに立ち上がる。まずは剣先で誘い出す。表、裏と圧力をかけるが、慎太郎の剣先はぴくりとも動かない。そのまま十数秒。竹刀を払い、強引に小手へ跳んだ。小手から面へ。防具を真正面からとらえたが、当たったのは竹刀の根元だった。

 しばらく膠着状態が続いた。慎太郎はほとんど自分から仕掛けてこない。高校生の時はうるさいくらい休みなく攻めるのが慎太郎のやり方だったが、作戦を変えたのだろう。同じ道場に全日本選手がいると、目指す場所がおのずと変わってくるのかもしれない。

 三分ほど過ぎ、降りはじめた雨のようにぽつりぽつりと打ち合っていたのが、いきなり豪雨に変わった。慎太郎の小手打ちに小手打ちを合わせ、面に跳ぶ。わずかに逸れ、体あたりからの引き小手。追ってくる慎太郎の面に合わせて胴を抜いた。審判の旗がさっと上がり、胴ありが宣告される。一瞬のスコール。

 開始線に戻ってよく見ると、三年生の副審は旗を振っていた。こいつは後で制裁。

 慎太郎がすんなり胴を打たせたことには、妙な感覚が残っていた。違和感と呼べるほどではない。ただ、底を見せていない気がした。面金の奥のどんぐり眼は平然としている。

 二本目、慎太郎は一気に間合いを詰め、ロケットのような速さで身をひるがえした。初太刀に反応する間もなく面を打ちすえられる。面あり。背後で試合を見ている部員たちが息を呑む音が聞こえた。

 お前が相手ならいつでも取り返せる。無言のうちに、慎太郎がそう言っている気がした。三年生の副審はまた旗を振っている。いったい何を見ているのだろう。竹刀を構えて浅野先輩の号令を待つ。

「勝負」

 警戒していたが、二度連続での奇襲はなかった。仕掛けてこない慎太郎を相手に、調子を崩していた。先入観にはこういう弊害もある。

 試合時間の五分が終わろうとする間際、苦し紛れの小手に出た。あきらかな判断ミス。中途半端な小手を慎太郎が見逃すはずもなく、あっさりと返し面に切り返された。三年生の副審は学習したのか、他の二人に合わせるように一瞬遅れて旗を上げた。面あり。

 落胆を背中で感じながら、竹刀を収める。やはり、慎太郎は強くなっていた。

 それから団体レギュラーたちが順番に慎太郎と試合をしたが、誰も勝つどころか一本取ることもできず、無抵抗のまま人形のように打ちこまれた。慎太郎も根がまじめなやつだ。どんなに力量差があっても、手を抜くことはない。

 十数試合こなした後、地稽古と掛かり稽古をやってその日は終わった。整理体操の間も慎太郎は涼しい顔をしていたが、部員たちは疲れを隠そうともせず、ぐったりと床に寝ころんで身体をほぐしていた。

 道場を出た慎太郎は手品のような素早さで着替えると、浅野先輩に挨拶を済ませて道場を出ていこうとした。送り迎えに出ると、慎太郎が耳打ちするように小声で言った。

「このへんで夕方から飲める店ないのか」

 飲み屋のひしめく学生街なら、五時から開いている店などいくらでもある。十五分待つように言うと、外で待つ、と慎太郎は返した。

「おれが道場にいたら、皆、気を遣うだろう」

 いつの間にそんな気配りを覚えたのか。おれは慎太郎を見送り、すぐにシャワーを浴びてポロシャツとジャージに着替えた。湯で洗い流した肌が息を吹き返す。緊張がほぐれて、急に空腹を実感する。早く何か腹に入れたかった。

 携帯には、慎太郎からメールが届いていた。最寄り駅で待つ、というシンプルな内容だった。スマートフォンと違って、情報が少ないのがガラケーの良いところだ。

 道場を出ようとすると、浅野先輩に呼び止められた。

「これから稲田さんに会うのか」

「ええ、そうですが」

「よろしく言っておいてくれ。うちの部員相手じゃ物足りなかったかもしれないけど、よかったらまた来てくれ、と」

 ほつれのない道着袴をまとった浅野先輩に、わかりました、と答えた。私服がオシャレなだけあって、着装にも乱れがない。女だったら好きになってしまいそうだ。剣道の実力と異性からの人気が必ずしも比例しないのが残念だった。