雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <6>

 昼のように明るい夕方の町を、ジャージのポケットに手を突っこんでぶらぶらと歩く。日が陰り、腕や顔に当たる風に涼しさが混じりはじめた。慎太郎は駅の改札前で待っていた。竹刀と防具があるからすぐにわかる。並んで歩きだす。今日は一日中、慎太郎と一緒にいる。

 駅を出ると、すぐ目の前にチェーンの居酒屋があった。窓越しに中年男が生ビールを飲んでいるのが見える。思わず喉が鳴った。空腹と渇きを癒せるなら、どこでも良い。

「ここでいいか」

 どこでもいい、と慎太郎は言った。店に足を踏み入れるなり、黒い和服のような制服を着た店員が駆け寄ってきた。

「二十歳未満のお客様は飲酒できませんが、よろしいでしょうか」

 慎太郎の方を振り向くと、苦い顔をしていた。

「誕生日、いつだっけ」

「十一月」

 諦めて店を出た。ごまかす方法はいくらでもあったけど、そうまでしてあの店に金を落としてやりたくない。酒を出す店は学生街にはごまんとある。

 絶対に年齢確認などやらない店を選んで、入った。裏路地に面した間口の狭い店は、エプロンをつけたおばさんが一人で営む飲み屋だ。骨董品のように古ぼけたテーブルと椅子が並び、その隙間をおばさんの飼い犬がうろうろ歩いている。無口な雑種の老犬。保健所の職員が見たら目を剥いて怒りそうだ。油でべとつくメニューに書かれたおつまみの価格は、目を疑うほど安い。ほうれんそうのおひたし、180円。豚キムチ炒め、280円。舞茸のてんぷら、330円。

 先客はいない。奥の席に向かい合って座り、目についたメニューを片端から頼んだ。四つ足の椅子は長さが不揃いなのか、やたらとがたついた。瓶ビールがすぐに運ばれてくる。グラスと栓抜きはセルフサービス。カウンターから取って来て、慎太郎に渡してやる。

「学生の飲み屋って感じだな」

「学生の飲み屋は嫌いか」

「いや、気に入った。チェーンよりずっといい」

 乾杯もせず、空きっ腹にビールを入れる。瓶ビール、280円。この店は原価計算をしていないと思う。てんぷらを揚げる音を聞きながら、おれたちは酒を飲んだ。

「一人、クソみたいな審判がいたな」

 こっちもその話をしようと思っていた。

「悪かった。うちの剣道部の実力はあの程度だ」

「誤審は別に気にしてない。全日本でもクソ審判はいるからな。ただな、お前があの環境にいるのが気に食わない」

 舞茸のてんぷらと塩ホルモン炒めが運ばれてきた。使いこんだプラスチックの容器に乗せられた料理が食欲をそそる香りを放っている。匂いに引き寄せられたように老犬が近づいてきた。物欲しげにテーブルの上を見つめているが、人間の料理をやるつもりはない。こら、とおばさんに怒られて、調理場の方へすごすごと帰っていった。

「あの部活は亮介のレベルに合ってない。スポーツ推薦があるというから、もっと強いのかと思ってた。なんでこの大学にしたんだ」

 名の知れた大学だから、とは言えなかった。剣道はいまひとつだが、偏差値は高い。勉強の不得意な人間が、大学の看板に魅力を感じるのは愚かだろうか。トップクラスの大学からは声がかからなかったのだから、他の大学を選んでいてもあまり変わらなかったような気がする。

 塩味のホルモンを噛んだ。味のある肉汁がじわじわと染み出してくる。何度顎を動かしても、固いホルモンは噛みきれない。

「やっぱり慎太郎は強くなったな。特練で揉まれてるんだろ」

「亮介は弱くなったけどな」

 黙っててんぷらを口に運んだ。揚げたての衣の熱さをビールで冷やす。

「なんだよ。言いかえさないのか」

 慎太郎はとげとげしさを隠そうとしなかった。おれはてんぷらの熱さのせいにして、口をグラスでふさいだ。慎太郎の顔は呆れていた。

「特練はどうして強いと思う。稽古がきついからじゃない。試合に勝たないと自分の居場所がなくなるからだ。部活なら、弱くても辞めさせられはしない。でも弱い特練員は違う。周りからの視線とかプレッシャーにやられる。高校大学で少しくらい良い成績でも、特練ではザコ扱いだ。おれだってそう。だから必死で稽古して、できることは全部やる」

「わかってる」

「わかってるなら今すぐ中退して道警に入れ。四年も怠けたら、もう取り返せないぞ」

 やっと、慎太郎がわざわざ大学まで来た理由がわかった。このひと言を言うためだったのだ。この真面目な坊主頭は、貴重な休日をつぶして、おれに忠告しに来たのだ。本気で中退を望んでいるわけではないだろうが、このままだと慎太郎との差が開く一方なのは確かだった。ただ、差が開いたからと言ってどうなるのだろう。

 様子をうかがうように、老犬がまた近付いてきた。隣の席の下にもぐりこみ、寝そべっている。客が席についたら、お互いびっくりするだろう。

「それで、どうするんだよ」

「何が。中退のことか」

「違う。大学卒業したらどうするんだよ。やっぱり教師か。実業団か。どうせ警察には来ないんだろう」

「わからない」

 剣道家はプロ選手にはなれない。野球やサッカーやゴルフのようなプロリーグがないからだ。トップ選手の第一選択は警察の他にありえない。警察官になるのが嫌なわけじゃないが、他の選択肢に気づいてしまった以上、そちらを無視することもできなかった。

 勧誘を諦めたのか、まあいいや、と慎太郎は言った。豚キムチ炒めと玉子焼きがテーブルに乗せられた。好物ではなかったのか、老犬は寝そべったままだった。

「全日本予選は出るのか」

「特練は全員出る。亮介も出るのか」

 うなずくと、慎太郎は意表を突かれたように目を丸くした。「出ると思ってなかった」

「そりゃ、優勝は難しい。でも、負けても勉強になるじゃん」

 それが偽らざる意見だった。おれは地雷を踏んだことも気づかず、厚切りの玉子焼きを箸でつまんで持ち上げた。甘い玉子焼きの向こうに、慎太郎の真顔があった。

「おれは優勝するよ」

 口に入れかけた玉子焼きを、小皿の上に置いた。物を食べている場合ではない。目を逸らし、テーブルに肘をついて明後日の方を向いた。慎太郎の言うことを耳だけで聞いた。

「負けたら終わりだよ。得られるものなんか何もない。勝たなきゃ意味がない。負けても勉強になるなんて、特練で言ったらぶっ殺されるぞ」

 謝るつもりはなかった。皿の玉子焼きを指でつまんで奥歯で噛み砕き、ついでにてんぷらも口に入れて、ビールで流しこんた。味なんてしない。酔いが回ってきた。

「慎太郎に優勝できんのかよ。特練でザコ扱いされてるんだろ」

「勝つ気のないやつは、一生勝てない」

「実力がともなってないなら意味もないだろ」

「亮介よりはともなっているつもりだ」

 おれたちはテーブルの料理をがつがつたいらげながら、互いのプライドを傷つける言葉を探した。一番の核心を突かないよう注意しながら悪口を言うのは結構大変だった。

 瓶ビールを六本空け、プラスチックの皿が九枚空いたところでおれたちの胃袋は一杯になった。その間、客はサークルか何かの学生たち四人組と、一人で飲みにきたじいさんしか来なかった。会計は合わせて四千五百円だった。どう計算すればこんなに安くなるのか、毎度のことながらわからない。

 防具を担いだ慎太郎と駅まで一緒に歩いて、改札前で別れた。筋肉に覆われた背中を見送り、アパートに帰った。

 明日も稽古だ。その翌日も、翌々日も稽古だ。ずらりと並べられたドミノのように、稽古は続いていく。最初の一枚を倒せば、途中でやめることはできない。最後の一枚が倒れた時、おれはどこにたどりついているだろう。