雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <8>

 もう何度見たかわからないそのシーンを、ふたたび再生した。

 モニターの久原選手は、竹刀を中段に構えてじりじりと間合いを詰めている。赤のたすきを結んだ相手選手が剣先を下げたのを合図に、面へ跳びかかる。それを待ち構えていた相手が頭上に掲げた竹刀で面打ちを受け、すかさず胴に切り返す。審判の旗は赤。

 デッキで再生中のビデオにはボールペンで〈全日本学生(久原)〉と書きこまれている。いまだにビデオデッキを使っている剣道部はうちくらいだろう。

「先輩、また全日の試合見てるんですか」

 マンガを読んでいた後輩が、いつの間にか後ろに立っていた。

「また見てるんだよ」

「自分が言うのもおこがましいですけど、先輩の面、良かったと思いますよ。タイミングが悪かったんですよ。返し胴ばっかり狙うやつは、大したことないですから」

「タイミングじゃないよ。誘ってるんだよ。微妙に剣先下げてるだろ」

 リモコンで巻き戻し、一時停止する。ビデオではわかりにくいが、確かに剣先を下げている。やけっぱちで返し胴を狙ったわけではないのだ。

 後輩はモニターに顔を寄せ、目を細めた。

「そこまで考えてるとは思えないですけどねえ」

 そうのたまうと、壁際にもたれ、マンガに視線を戻した。どいつもこいつも飽きずにマンガばかり読む。

 午後三時の道場には、テレビのスピーカーが発する音声と、洗濯機のモーター音が響いていた。午後の稽古がなく、バイトも入っていない日はどうしても時間を持て余す。同じようにやることのない連中が道場に集まっていた。ソファで昼寝をしている同期や、延々とスマホゲームに興じる後輩に囲まれて、おれは水曜の午後を過ごしていた。こうしている間にも、慎太郎は訓練をこなし、稽古を積んでいるのだろう。

 全日本といえど、学生選手権なら上位に進めるだろうと思っていた。高校時代に全国トップの連中と鎬を削ってきた経験が、過剰な自信を抱かせた。その結果が一回戦負けだ。北海道ベスト4、全日本学生一回戦負け。これが本当のおれの実力だった。

 急速に気持ちが萎えていく。

 洗濯機のアラームが鳴った。脱水の終わった道着を引っ張り出し、ロッカーに保管してあるハンガーに掛ける。道場の内庭には物干し台があった。竿に吊るすと、内庭に立つケヤキの木漏れ日を浴びながら、紺の道着が揺れた。

 高校から使っている道着はずいぶん色褪せているが、ほつれもなく、まだしばらくは使えそうだ。裾には艶のある白糸で〈久原〉と刺繍されている。そう言えば、高校三年の全道大会で着たのはこの道着だった。

 二年前の五月、おれたちは確かに優勝するつもりだった。全国上位を狙う私立を、推薦なしの公立が倒すと本気で信じていた。

 受験で入学してきた普通の剣道部員たちを、慎太郎と一緒に一から叩き上げてきた自負はある。指導者にも恵まれた。おれたちの入学と同時に転勤してきた顧問は、国士館出身の剣道五段だった。

 文字通り、足腰立たなくなるまで稽古をやった。合宿にもなれば血尿が出るのは当たり前だった。入ったそばから部員が辞めていったが、不思議なもので、強いやつほど歯を食いしばって部に残った。

 朝練の後は寝て過ごし、昼食をとったらまた睡眠。そうでもしないと体力がもたない。放課後はきっちり三時間稽古をして、週末は必ずと言っていいほど他校との練習試合だった。おれたちには目の前の稽古と試合が生活のすべてで、その先にある将来なんて遠すぎて見えなかった。

 出稽古先で勝利をおさめたり、地方大会で結果を残しているうちに、その他大勢として埋没していたおれたちの高校は少しずつ存在を知られるようになった。団体の勝ちパターンは、先鋒の慎太郎がもぎとってきた勝ちを守り切るか、大将のおれまで引き分けで回して勝つか、どちらかだった。

 圧倒的な実力差があるならともかく、剣道で引き分けを狙うのは実はそれほど難しいことではない。本来の剣道の精神には反しているかもしれないが、強豪だってやっているのだ。遠慮していたら、いつまでたっても弱小校は勝てない。次鋒、中堅、副将の三人には、無理をしない、という方針を徹底させた。

 目標は道大会優勝。そして全国上位。

 立ちはだかるのは、全国常連の私立校だった。高校二年の国体では、北海道代表メンバーが全員私立の部員だった。おれも慎太郎も、あと一歩のところで選考を勝ち抜けなかった。おれと慎太郎が負けることは、イコールうちの学校の負け。

 五月まで、年末も年始もなく竹刀を振り続けた。エネルギーが尽きるまで稽古して、死んだように眠って、起きればまた稽古。洗った道着が乾く暇もないほどだった。それでも続けられたのは、強くなっているという実感が得られたからだ。嘘じゃなく、寝て起きれば強くなっている気がした。

 春休みの関西遠征では連戦連勝だった。気持ちは優勝に向けて高まった。

 一回戦、二回戦と危うげなく勝ち進んだ。山場は準々決勝だった。

 対するのは優勝候補の筆頭。ほとんどの部員を道外から呼び寄せている強豪だった。練習試合で一度も勝ったことのないチームに、さすがの慎太郎も苦戦した。それでも大将まで一本も取られずに回してきたのは大したものだ。もう一回やれと言われても、あいつらも二度とできないと思う。

 大将は180センチを優に越える長身。防具をまとった姿は人間というより、巨大な壁のようだった。中学から名前の知れた選手を相手に、それでもおれは落ち着いていた。自信をつけるには練習しかないと信じているのは、この試合の経験からだ。

 結果から言えば、勝ったのはおれだった。それも目の覚めるような飛び込み面。会場のどよめきが聞こえた。してやったり。今のところ、あれが人生で一番の面打ちだ。

 その勢いを駆って決勝まで進んだが、最後は次鋒から副将まで三人連続で負けて、勝負が決まった。あの奇跡の一戦ですべてを使い果たしてしまったようだった。

 個人で三位に入賞した慎太郎は、進学をやめて警察学校に入ることを決めた。他の同期も刑務官になったり、大学に進んだりしてばらばらになった。キャプテンにして不動の大将だったおれは中途半端な大学を選び、こうして道場で油を売っている。

 あのころは、どうして毎日こんなことをやっているんだろう、という疑問すら浮かばなかった。何者でもない高校生には、全道優勝という目標さえあれば十分だった。

 おれは何者にもなれないまま二年が経ち、二十歳になった。そして今でも、全道優勝という目標以上に熱中できる何かを探している。そんなものは二度と得られないとわかっている。それでも情熱の尻尾をつかまえたくて、何度も何度も試合のビデオを見ている。

 もう一度巻き戻し、再生する。名前も知らなかった九州の大学の選手に、見事に胴を抜かれるおれ。慎太郎が失望する気持ちもわかる。