雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <9>

 素振りの手を休めると、窓越しにラガーシャツを着た体格の良い男の背中が見えた。両手にビニール袋を提げている。ラグビー部の一年生だろうか。男はプラスチックごみの山に持ってきた二つの袋を投げた。うまく頂上に乗った袋の中には、プロテインの包装が透けて見える。あいつらはボディビルダーにでもなりたいのだろうか。

 いつもより早めに木刀素振りを終えた。今朝は摺り足はなし。汗を拭きながら道場を出ると、次の間のフローリングで浅野先輩があぐらをかいていた。前髪はワックスできっちり整えられている。黒のシャツに細身のデニムが似合っている。おれの知らないブランド物なのだろう。

「いらしてたんですか。声かけてくれればよかったのに」

「自主練の邪魔したら悪いだろう」

「ドリンク飲んでもいいですか」

 冷蔵庫からボトルを取り、先輩の隣に腰をおろす。

 前夜、浅野先輩からメールを受けていた。稽古前に話したいことがある、と。

 薄めたドリンクを飲みながら、先輩が口火を切るのを待った。ボトルから口を離すと、先輩はおれの目を見て言った。

「夏合宿の後から、久原にキャプテンをまかせたいと思っている」

 内庭のケヤキにとまった蝉が、腹を震わせて鳴いた。葉ずれの音が聞こえる。

「自分、まだ二年ですけど」

「だから、キャプテンを二年やることになる。その分大変だとは思うけど、久原以外に適任者がいない。もう四年の間で総意は取れている。後はお前が受けてくれるかどうかだ」

 うちの剣道部では、夏合宿が終わると四年は引退する。団体レギュラーだけは秋の優勝大会に向けて稽古に出席するが、幹部職は三年に譲ることになる。

 四年が引退すれば、三年がその後を継ぐ。それが当たり前だ。三年の先輩たちもそのつもりだろう。二年のおれがキャプテンに指名されるとは思ってもいないはずだ。

「四年で総意は取れていても、三年はどう思っているんですか」

「三年にはこれから話す」

「なぜですか。普通は三年からキャプテンを出すじゃないですか。あ、あと監督や師範はどうなんですか」

「監督も師範も、お前が適任だと言っている。おれもそう思う」

 いずれキャプテンになるとは考えていたが、今年から飛び級でやることは想定していなかった。三年の先輩の顔が浮かぶ。誰がどの幹部職につくかは、すでにあらかた考えているはずだ。この話を聞いたらどう思うだろう。

 夏合宿は来週に迫っていた。

「こんなギリギリの時期に決めたんですか」

「本当に悪いと思っている。おれたちも迷ったんだ。でも最終的には、久原がベストだという結論になった。三年にはちゃんとおれたちから説明する」

 まだ整理がついていなかった。はいともいいえとも言わず、黙っていた。二年の指示を、三年の先輩たちが素直に聞くだろうか。無断欠席や退部の原因になりはしないだろうか。確かに剣道に関しては、この部で一番強いという自信がある。しかし、だからと言ってキャプテンをやる理由にはならない。

「どうして、自分なんですか」

 浅野先輩の表情に迷いはなかった。きっと、これまで散々迷い、四年生たちの間で嫌というほど議論して決めたことなのだろう。そうでなければ、おれの目をじっと見ることはできないはずだ。

「このままズルズル続いても、この部は中途半端なままだ。おれもキャプテンをやってみてわかった。どんなに現状を変えたくても、一年でできることには限りがある。だったら、久原に二年間まかせてみよう。誰よりも真面目に剣道と向き合っている久原なら、もしかしたら部を変えられるかもしれない。そう話した」

 目を逸らしたのはおれの方だった。

「自分は他にやることがないから、やっているだけです」

「それは、剣道が好きだってことだろ」

 わからなかった。最近、色々と考える割にはわからないことばかりだ。

 少なくとも、純粋に好きだという感情とは違うような気がした。小学生がカレーライスを好きだというのとは種類が違う。ただ、離れたくても離れられない関係のことを「好き」と言い換えられるのならば、もしかしたら、おれは剣道を好きなのかもしれない。

 先輩は無言を了承と受け取ったようだった。

「やってくれるな」

「やるしかないですよ。先輩に言われたら」

 どう抵抗しても無駄に終わりそうだった。よかった、と言って先輩は足を伸ばした。

「こんな弱いチームは嫌です、と言われなくてよかったよ」

 弱いチームなら慣れている。ただし高校時代と違って、顧問教師もいないし、慎太郎もいない。一人でモラトリアムの連中を叩き直すのは骨が折れそうだった。

 ずっと、浅野先輩に聞いてみたいことがあった。今まで気恥ずかしくて聞けなかったが、なぜかこのタイミングなら口にしても許されそうだった。

「先輩はどうして教師になりたいと思ったんですか」

 浅野先輩は来年の春から、地元の私立中学で体育教師になる。教師も剣道選手にとっては主な就職先のひとつだが、先輩の場合はそれだけが理由ではないような気がした。

「久原と同じだよ。他にやることがなかった」

 っていうのは冗談だけど、と先輩は続けた。

「中学の顧問がすごくいい人だった。優しいわけじゃなくて、むしろ厳しい人だったな。でもおれはその人を尊敬している。思いやりを感じる厳しさがあるってこと、その人と会って初めて知ったよ」

 先輩は薄笑いを浮かべていた。何かを思い出しているのだ。おれの知らない、中学の厳しい顧問。

「いい先生だったんですね」

「おれは人に甘いから、その先生みたいにはなれないだろうけどな。久原もこの一年、歯がゆかったと思う。これからはお前のやりたいようにやってくれ」

 どこまでもいい人。先輩と接していると、こういう剣道家がいてもいい、と思わせてくれる。みんなが目を吊り上げていたら、それはもはや武道ではなく、ただの喧嘩だ。

「剣道やめないでくださいね」

「もちろん」

 いつの間にか鳴きやんでいた蝉が、ふたたび腹を震わせはじめた。