雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <10>

 どうやったらこんなに口を臭くできるのか疑問だ。

 それくらい、バイザーの吐く息は臭かった。病気のせいなのだろうか? 歯周病とか。

「久原くんはまだ学生だからわからないだろうけど、本当、社会人って大変なのよ。お金もらって仕事するって、もう、本当に辛いことなんだから。楽して金稼いでるヒトなんて、この世にいないのよ」

 生肉を腐らせたような匂いにアルコールが加わると、いよいよ鼻の粘膜が絶滅しそうだ。おれはサラダに箸を伸ばすことで顔の向きを変えた。できるだけ時間を稼ぐため、ゆっくり、ゆっくりとレタスをつまんで皿に移す。

 宮村さんはおれを防波堤代わりにして、左隣りで静かにハイボールを飲んでいる。誰とも話さず、黙々と酒だけを飲む。自宅じゃないんだから。

「バイザーの場合は、特にかかえてる店舗が多いですからねえ」

 向かいに座った店長が相の手を入れる。それに気をよくしたバイザーが調子に乗って、また鼻粘膜破壊攻撃を繰り広げる。アホだ。みんなアホ。

「そうなんだよ。一つ店舗が潰れたと思ったら次はこっちやれあっちやれって、もう休む暇ないんだよ」

「経験豊富なバイザーって、今は少ないですもんね」

「そう。みんな商品開発とかマーケに行きたがるけど、一番偉いのはバイザーだからね。バイザーがいなきゃ、店なんて成り立たないんだから。店長もさ、もうちょっとおれに休息を頂戴よ。店に来るたびに、注意事項が多すぎてうんざりするもん」

 言いたい放題だ。たぶん、こいつは社内でも相当嫌われているだろう。だから四十になっても現場を離れられないのだ。誰かが店員を呼んだ。バイザーがそれに便乗して手を挙げる。

「あ、ビールもう一杯。久原くんはいらない?」

 うるさい。お前はジョッキでブレスケアでも食ってろ。そう言いたいのをこらえて、大丈夫です、と断る。

「もういいの。最近の若い人は酒飲まないもんねえ」

「明日も朝から稽古なんで」

「稽古? 何やってんの?」

「剣道です」

 すでに話していたが、もう一度、おれが大学の剣道部員であることを説明してやる。バイザーはふーん、ふーんとうなずきながらおしぼりで首の後ろを拭いていた。それをまた机の上に戻す。すぐ横にはおれの箸。勘弁してくれ。

「剣道ってさ、ちぇぇぇい、みたいな声出すよね」

 宮村さんがびくりと肩を震わせて振り向いた。突然の奇声に驚いたらしい。目には心の底からの嫌悪が浮かんでいた。

「それで久原くんは、大学出たら何やりたいの」

「まだ考えてるところです」

「そろそろ真剣に考えたほうがいいんじゃないの? 剣道もいいけどさ、将来プロの選手になれるわけじゃないんでしょ。あ、剣道にプロあるのか知らないけど。ともかく、何ていうか、自分の将来像をイメージしてさ。そういう時期なんじゃないの、久原くんも」

 余計なお世話だ。就職支援課でもここまで無責任な発言はしない。

「うちの会社にも実業団チームあるけどね。野球とか水泳とか。あいつらも選手のうちはいいけど、現役引退したら普通の社員と一緒だからね。監督とかコーチになれるのはほんの一部だけ。あとはそれまで真面目に働いてたやつらと条件同じ。それまでスポーツに時間使ってた分、条件悪いくらいだよ」

 そろそろ限界だ。愛想笑いはだいぶ前に消えた。

「剣道はどれくらいやってるの。週三日とか?」

「毎日やってます」

「毎日! へええ、そりゃすごい。でもどうせ毎日やるなら、将来役立つことやったほうがよくない? 英会話とか、資格の勉強とかさ。そのほうが履歴書にも書けること増えるでしょう。剣道何段ですって、それ資格になるの」

 よし。内心、今月限りでこの店を辞めることを決めた。こんなバイザーのいる店で働く必要はない。コンビニはいくらでもあるのだ。さらばエルマート庁舎通り店。次はもう少しオシャレな制服の店を探そう。

「あんまりですよ」

 左隣りからぽつりとつぶやく声がした。宮村さんは酒で顔を赤らめている。

「あんまりですよ、それ。久原くん、すごいじゃないですか。毎日剣道するなんて」

 バイザーは呆気にとられたのか、ぽかんと口を開けている。いきなり会話に加わってきた宮村さんに、おれもどう応じていいかわからなかった。

「……どうも。ありがとうございます」

「毎日ですよ、毎日。尋常じゃないですよ。しかも剣道って、私学校の授業でやったことあるんですけど、めちゃくちゃしんどいんですよ。臭いし、暑いし。バイザー、やったことあるんですか」

「ないけど」

 明らかにバイザーは気おされていた。座布団の上で身をのけぞらせている。

「英会話習っても使わないかもしれないでしょう。しょうもない資格とっても意味ないでしょう。でも久原くんが一生懸命剣道やったことだけは、絶対に裏切らない。それしかやることがなかったとしても、毎日真剣に向き合ってればそれが自信につながるんです。将来何が役立つかなんて、誰もわからない」

 宮村さんの白目は、絵具を薄く溶かしたように赤くにじんでいた。気迫に押されたハイボールの水面が揺れている。

「私にはやるべきことなんてない。でも久原くんにはある。それだけで十分でしょう」

 バイザーは毒気を抜かれたような顔でおれと宮村さんを見比べていた。店長は素知らぬ顔でメニューを眺めている。

「……そうね」

 しぼりだすような声で、バイザーがうめいた。その返事に満足したように、宮村さんは独り飲みを再開した。さっきまでの冗舌が幻のように、ぷっつりと話さなくなる。しかしその胸のうちに熱いものがあることがわかった。宮村さんに免じて、このアルバイトをもう少し続けてみてもいいかもしれない。

「あのバイトリーダー、変わってるね」

 鼻先をバイザーの口臭が漂い、吐き気をもよおした。