雑誌岩井圭也

小説と雑文

モラトリアム三段 <終>

 雷のような面打ちが、おれの脳天に向けて振り下ろされる。間一髪のところで後退して竹刀をかわし、体勢を立て直す。今の飛びこみ面は危なかった。少しでもかすれば、審判の印象は悪くなる。最悪、その場の流れで一本にされかねない。

 ブロック初戦、頂点に旗を置くと決意したものの、おれは戸田さんの猛攻をしのぐのが精一杯だった。試合開始からここまでおれの見せ場は何一つない。引き面が当たったのと出小手がかすったくらいで、後は防戦一方だった。

 さすがに全日本レベルになると、強さは桁違いだ。打突の速さ、力強さ、正確さ。そして何より、読みの深さ。まるでおれの行動をすべて予知しているかのように、的確にかわし、応じ技を繰り出してくる。

 つばぜり合いになり、面金越しに戸田さんの顔が迫ってくる。三白眼に尖った太い鼻。たわしのような無精ひげが汗で濡れている。唇はなぜか笑みを浮かべているように見えた。こういう顔なのだろうが、正直、怖い。

 どうにかしのいでいるうちにブザーが鳴った。五分経過したのだ。この大会に引き分けはない。五分以内に決着がつかない場合は、一本先取の延長に突入する。制限時間はない。いったん止めがかかり、すぐに主審が「勝負」と宣告する。

 延長に入ればまだ勝機はある。五分以内だと一本を取っても取りかえされる可能性があるが、一本勝負の延長戦ではそれはない。引き分けがない以上、一か八かでも取りにいく。

 物打ちでの応酬から一気に間合いを詰めた。わずかに戸田さんの手元が上がる。今だ。

 ぐっと左足で床を蹴り、思いきり踏みこむ。捨て身の面打ち。全力で竹刀を振り上げる。

 瞬間、右小手に何かが当たった。

 しまった。

 そう思った時には、もう戸田さんの姿は消えていた。白の旗が三本上がっている。主審が「小手あり」と宣告した。華麗な出小手。お見事、と言いたくなるほどだった。

「勝負あり」

 蹲踞の姿勢で竹刀を収め、場外へ下がる。しかしおれには休む暇はない。すぐに慎太郎との試合をはじめなければならない。

 観客たちは柔道室の畳の上であぐらをかいていた。出場選手の家族や友人がいる。浅野先輩は難しい顔でじっと腕を組んでいる。きっとおれの顔も同じような表情だろう。汗が目に入りそうになり、反射的に目を閉じた。

 白のたすきを結んだ慎太郎は、退屈そうにおれを待っていた。

「くそっ」

 負けを引きずっても仕方ない。小手をはめた拳で自分の頭を殴った。おれが慎太郎に勝ち、慎太郎が戸田さんに勝てば、本数差で決勝リーグに上がる可能性は残されている。やるしかない。

 短く気合いを入れ、試合場に一歩踏み出した。慎太郎も待ちかねた様子で踏み出す。

 礼。帯刀から抜刀、蹲踞。

「はじめ」

 主審の合図と同時に立ち上がる。慎太郎は初太刀から大胆だった。遠間から虚を衝く面打ち。この奇襲は慎太郎の常套手段だ。難なく竹刀で受ける。

 しかし、その後の体当たりが予想外だった。ダンプカーと正面衝突したような衝撃。思わずよろめいたところに、すかさず引き面が襲ってくる。首をひねって、ぎりぎりのところで芯を外す。副審の旗が反応したが、上がりはしなかった。慎太郎は平然と竹刀を中段に戻した。

 あの体当たりは、腕力だけで押しただけの強さではなかった。腰から突きあげるようにぶつからないと、うまく力は伝わらない。うちの部員との練習試合では見せていなかったが、あんな技術も身に付けていたのか。

 焦りが高まるのを感じた。間合いが切れている間に、大きく深呼吸をする。落ち着け。不用意に打てば返される。自分の剣道をするまでだ。

 しかし攻めの糸口はなかなか見つからなかった。手元が上がる瞬間をねらうが、慎太郎の構えは一滴の水も漏らさないほど頑丈だった。正中線が奪えない。一方、慎太郎もこちらの落ち着きを警戒しているのか、手数は少なかった。

 それは五分が経過する間際だった。

 慎太郎がいきなり、竹刀を大きく払った。おれの右側に竹刀を払い、強引に面を割ってきたのだ。明らかに慎太郎は勝ちを急いでいた。根競べに勝ったのは、おれだ。

 後退しつつ、勢いを利用して払われた竹刀を旋回させる。面打ちを受け、返す刀で面を食らわせる。身体の伸びきった慎太郎にもはや成す術はない。面布団をとらえた瞬間、竹刀を握った両手に痺れるような快感が伝わってくる。

 三つの赤旗が高く掲げられた。

「面あり」

 この瞬間があるから、剣道はやめられない。

 

「つえー」

 隣で観戦していた慎太郎が、なかば呆れるようにつぶやいた。決勝リーグ最後の試合は、戸田さんのストレート二本勝ちだった。いわゆる二コロ。相手も特練員だから、当然強い。去年優勝できなかったのが不思議なほどだった。

 結局、ブロックを勝ち抜いたのは戸田さんだった。慎太郎はあの後の試合で計十二分も粘ったが、最後には強烈な抜き胴を食らって敗れた。戸田さんは決勝リーグでも全勝し、全日本出場を決めた。

 慎太郎は立ち上がり、綿袴を手で払った。

「帰って稽古するか」

「これから?」

「今日も稽古、明日も稽古。僕は剣道特練員」

 慎太郎は妙な節をつけて歌うように言った。おかしくて、つい笑ってしまう。こっちも同じ節で歌ってみる。

「今日もバイト、明日もバイト」

「まだコンビニのバイトやってるのか」

「僕は貧乏大学生」

 しかしそれも悪くない。アルバイトをしていなければ、宮村さんとも知りあわなかったのだ。今度、試合に誘ってみるのもいいかもしれない。来てくれるかわからないけど。ついでにバイザーも呼んでみるか?

 閉会式で、戸田さんが優勝の賞状を受け取っていた。その姿に自分を重ね合わせてみる。

 おれが何者になりたいのかなんて悩みは、優勝の賞状を受け取ることに比べればどうでもいいような気がした。

 

 〈了〉